北川 淳治(きたがわじゅんじ)

◆プロフィール◆

 

昭和二年(1927)千葉県生まれ。旧私立銚子中学校卒。昭和三十五年(1960)(株)日本ビジネスコンサルタント入社。昭和四十四年(1969)(株)日本情報開発取締役。昭和五十一年(1976)(株)スタット・サプライ設立社長。昭和六十一年(1986)(株)スタットコンピュータシステムズと合併(株)スタットコンピュータに改称、昭和六十三年(1988)(株)システムウェアと合併。平成元年(1989)(株)スタット・サービスと合併(株)スタットに改称。平成九年(1997)エム・ケー・シーと合併、会長、平成十年(1998)社長。平成十三年(2001)十月、子会社エムエス情報システム(株)と合併し、社名をソラン(株)に変更。

 

 

 

ソラン(旧エムケーシー・スタット)の事業展開の特徴は、積極的にM&Aを実施し、企業規模の拡大をはかっていることである。平成十三年(2001)度の連結売上高(予想)は、五百五十億円。業界でもM&A を活用した事業展開では先駆けているソラン。同社グループを率いる北川淳治のM&Aにおける要諦は、その相手企業を企業再生ともいえる手法で蘇生させることである。

同社は、平成十三年(2001)十月一日、子会社であるエムエス情報システムと合併し、従業員数二千百五十人、平成十四年(2002)三月期の年間売上高は、三百十三億円を目指している。

叔父北川宗助のもとへ

北川淳治が情報サービス産業にかかわりをもったのはまったくの偶然であった。北川は当時、国会議員の秘書をしていた。しかし、日本ビジネスコンサルタント(NBC、後日立情報システム) の創業社長である叔父の北川宗助の誘いで、昭和三十五年(1960)五月、同社に入社した。  NBCは、昭和三十四年(1959)に創業された日本の情報サービス産業における先駆的な企業であった。しかし、北川自身は「当時、IT産業、情報サービス産業が将来の基幹産業になるとはまったく思っていなかった」。同社ではもっぱら営業畑を歩いた。戦前もからてIBMマンであった創業社長の叔父からは、「飼われたカモになるより、外からエサをもってくる野ガモになれ」と厳しく教育された。昭和三十七年(1962)には大阪支店長に就任してから昭和四十三年(1968)までの間に、当初七人しかいなかった従業員を五百人の規模までに拡大した。

当時の大阪支店長時代を振り返り、「最初はガード下の赤提灯でコップ酒を飲んでいましたが、あっという間に北の新地の一流クラブや祇園や先斗町で遊べるようになりました」

しかし、絶頂期は長く続かなかった。ある事件に巻き込まれてしまい、手ひどい苦労をするはめに陥る。さらに悪いことは続く。NBCは業務拡大のために、日立製作所の系列下に入ったが、そのために叔父の北川宗助は同社の経営権を手放さざるを得なくなり、結局、退社してしまう。淳治も昭和四十四年(1969)、叔父に続いてNBCを退社した。

このNBC時代の経験から、北川淳治は「人間にはツキがありますが、どんなにツキにめぐまれた人でも波があるんです」。そして「絶頂期のさきには奈落の底が待っています」と己を常に戒めている。

NBCを退社した後、叔父、北川宗助は新たに日本情報開発(NID ・後エヌアイデイ)を創業する。淳治は、その立ち上げを取締役営業部長として手伝うことになった。NID には六年間勤務したが、叔父の後継者としてK氏が選任されたために、北川の方が年上ということもあって退職した。北川は、この間のことを次のように述べている。「NIDが五百人くらいの規模になって、いつまでも宮仕えではしょうがないなと思いました。それこそ叔父に見習い、野ガモとなってもう一回大きな夢を持とうと思ったわけです」。

NBCで叔父が経営権を手放さなければならなかったことと、NID で叔父の後継者になれなかったことが北川淳治には大きな転機になったと思われる。

逆境をいかに活かすか

NIDを退社後、昭和五十一年(1976)四十九歳にして、北川は初めて自分の会社、スタット・サプライを創業した。この創業時の最大の苦労は資金が少なかったことである。北川は必要な資金の五分の一程度しか用意することができなかったかはかった。「どちらかというと宵越しの金は持たないということで使って来ちゃったほうですから、一番困ったのは資金でした」と当時を振り返る。そのため新入社員の親に私募債を買ってもらうことで残りの資金の手当てをした。

この時親身になって、いろいろなサポートをしてくれたのが信用金庫であった。そのため北川の信用金庫に対する信頼は厚い。

北川の念願は、創業したスタット・サプライを一刻も早く一千人規模の会社にし、東証一部上場を果たすことであった。しかし、そのためには人材不足、ソフトウエア技術者をはじめとした教育などさまざまなネックがあった。事実、創業したスタット・サプライの従業員数が三百人を越えるのに十年もかかっている。

四十九歳で新たなソフトウエア企業を起こした北川は「自分にとって会社を成長させるには時間的ロスが多すぎます。急激に企業規模を拡大するにはM&Aしかありません」。また「やっぱり一流の会社にもって行くためには、一年一年積み上げて会社を大きくしていくというのは時間のロスだということで、M&Aしかないと考えていましたし、自分の会社を作った時からM&A的発想があったことは事実です」と述べている。

また「IT の世界では技術革新が激しく、内部で人材を育成するには時間がかかりすぎます。そのためには既に新しい技術を持っている企業とのM&Aを行う以外に方法はありません」とも述べている。

つまり「私が年輩でなかったら、そのような発想になったかどうか分かりませんが、幸か不幸か会社を起こしたのが四十九歳でした。そうすると時間を短縮するためにはできあがった会社をくっつけたほうが早いわけですから。現在、ITブームで他社は相当の数の新卒を採用していますが、当社は特別に増やしません。コンスタントに八十人前後です。今年余計にとって教育しても、戦力になるのは四年後ぐらいです。それにOSだってめまぐるしく変わる可能性があります。リナックスなんていうものも出てきましたから、四年後にウィンドウズが主流であるか分かりません。今までわれわれはアプリケーションソフトウエアの開発が中心ですから、ある程度まとまった規模が必要なんです。そのためには買収した方が早い」

M&Aの本格化

この言葉通り同社M&Aが本格化するのが昭和六十三年(1988)らで、平成元年(1989)の二年間に三社との企業合併を行う。昭和六十三年(1988)システムウエアと合併、平成元年(1989)スタット・サービスと合併、同じく同年ワイシーシーと合併を行なった。バブル初期に三社と合併したことから同社は一見バブル企業の典型とも見える。しかし、このような華やかな外見とは違って同社の事業展開は驚くほど地味なものである。北川は、次のように述べる。「バブル期にも、その崩壊期にも着実に手を打ちました。株式の店頭公開時にも資金が入りましたが、設備の更新や拡充などほとんど本業に投資しました。不動産への投資は独身寮として使う建物を購入しただけです」。バブルの頃、少なくない数のソフトウエア企業の経営者が過剰な不動産投資などに走ったのとは、まったく異なる。「バブル期の頃株式を公開したソフトウエア企業の経営者が、銀座で遊んだり、高級な外車を乗り回したり、ヨットを買ったりして、週刊誌に載る黄金時代でした。人間やっぱり有頂天になっちゃだめですね」と述べ、さらに「平成六年(1994)にやむを得ず多少のリストラをやったわけです。『ホトケ』の北川としては辛かったですよ。二度とあんな思いはしたくない。少し弱気に構えた方が良いのではないか、良い時にはもう下が断崖ですよ、というのが私の人生観です。絶頂期を一歩間違えたら奈落の底が待っている。そう思えば間違いないんじゃないでしょうか」と語っている。

平成五年(1993)から平成六年(1994)の不況期には、同社は若干のリストラも実施し、いちはやく「雇用調整助成金」も交付を受けた。北川によれば「業界では雇用調整助成金の交付を受けると、業界のイメージが悪くなると反対する企業が多かったんです」。しかし、同社は業界で最初に雇用調整助成金の交付を受ける。同社ではこれを利用して汎用コンピュータからPCベース、ウィンドウズベースヘのソフトウエア技術者の転換教育を行い、さらにクライアント・サーバ型でのパッケージソフトウエアの開発にも成功した。逆境を前向きに捉えて、それをうまく活用したのである。そのため「無配だったのは一年間だけでした。その後はずっと配当してきました」。

そして平成九年(1997)MKCとの合併に至る。MKCとの合併は友好的M&A であった。MKCは昭和六十二年(1987)には株式の店頭公開を行い、平成四年(1992)には東証二部上場を果たしていた。しかし、MKCは店頭公開から、東証二部上場に至る過程での拡大政策がたたり、経営が悪化していた。バブルに踊らず、株式の店頭公開時に得た資金も本業に投資したスタットとは対極の経営方針をとっていたといえよう。そこで八十二銀行の斡旋で平成九年(1997)にスタットと合併したが、合併発表後から合併までの期間は、わずか四カ月半という短期間であった。

その後も同社のM&Aは続く。平成十年(1998)に日本タイムシェアを十七億二千万円で買収し、さらに平成十一年(1999)長銀情報システム(後エムエス情報システム)も十五億円で買収した。

以上、いずれの買収、合併とも友好的なM&A であり、アメリカなどに多く見られるような敵対的なM&A ではない。北川によれば、敵対的なM&Aは日本の企業風土になじまないと言う。「日本でもこれから変わっていくと思いますが、いまの段階ではM&Aは、要するに社員を含めた業務全部を一つに統合するわけで、とくにIT産業は人が中心の企業ですから、敵対的なM&Aも今後出てくるとは思うのですが、成功するかどうかはちょっとクエスチョンマークかなと思っています」。また「M&Aを行うかどうかを決める特別なノウハウはありません。ただ経験しかありません」と述べる。そしてこのM&Aをすべてキャッシュで行っている。ただ北川への信頼がM&A の成功にプラスしているかもしれない。「NBC時代から『ホトケ』の北川で通っていますから、あまり自慢にもなりませんが、人の良すぎるところが欠点でもあることは承知しています。でも、これがM&Aを成功させる大きな要になっているような感じがします。日本タイムシェア、長銀情報システムでも、うち以外にも何社か話があったのです。私が積極的に動いたわけではないのに、相手方の会社に北川なら安心できると思わせたのが、の成功の鍵になったのかもしれません」。

「私が自慢できるのは、価値のある商品を手に入れて、磨いて世に出す、いわば企業再生ということですね。要するにいい買い物をしているということです」。

もう一度やり直せ志向

さらに北川はソフトウエア産業の将来をこう見ている。「この業界はもっと活発にM&Aが行われて、二極分化の時代が来るのではないかと見ています。つまり総合的なソフト会社と、小さいけれど特徴のある会社のどちらかでないと生き残りは難しいと思います。百人から百五十人くらいのソフト会社が一番苦しくなると思いますね」。

また日本のソフトウエア企業の弱点は、開発コストが高いことにあると見ている。「世界で一番高い人件費で作った世界で一番高いソフトをいつまでユーザーが使ってくれるか心配です。これが右肩上がりの時代なら、ユーザーも納得してくれるかもしれません。しかし、ユーザーが必死にリストラをしている時代に、こんな高いソフトをいつまで使ってくれるか疑問です。業務をパッケージソフトに合わせてソフトウエアの開発コストを下げるとか、形態はいろいろと変わると思いますが、コストがソフトウエア産業、ソフトウエア企業の優劣を決めるような時代が来ると思っています。もちろんその前提に品質の間題は当然ありますが」。

さらに旧MKC は北京に北京工業大学と合弁会社をもっていた。北川はここにコスト削減の―つの活路を見いだそうとしている。「北京から新しい人材を連れて来るという計画を作り、現在二十五人が日本に来ています。コスト削減のために、日本の仕様書を勉強させて、北京に帰して、ソフトウエア開発にあたらせる計画です。日本でソフトを作る場合と比較して、中国ではソフトウエア技術者一人あたりの人件費が三分の一程度、半分よりまだ安い。そして技術者は優秀です。うちの現場にも一度失敗してもおつりが来るぞ、二度やれば間違いないから、どんどん出せと言っているんですけれど、日本語が障壁になります。それでマイクロソフトの試験に英語で合格した中国人に日本語教育を十力月して、現在日本に来てもらって、研修をしているわけです。当然、教育した中国人ソフトウエア技術者が転職してしまうことも考えています。それを躊躇していたら前に進めません。それでも中国人ソフトウエア技術者を活用すべきと考えています」。

北川は情報サービス産業で働いているとくに若者に「失敗を恐れるな」と檄を飛ばしている。五十歳に近い年齢で、新たな企業を起こすことができた自分の体験をふまえて、「失敗を恐れる」ことはない、「失敗したらもう一度やり直せばよい」と強調する。ものごとは前向きに考え続けることが重要なのである。

注 ソラン株式会社は平成二十三年(2011)にITSに吸収合併された。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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