北川 宗助(きたがわ そうすけ)

◆プロフィール◆

明治四十一年(1908)千葉県生まれ。平成十四年(2002)没。昭和三年(1928)黒沢商店入社。十三年(1938)日本ワットソン統計会計機械(株)入社。二十年(1945)-三十(1955)年米陸軍東京補給本部統計機械部顧問。三十年(1955)(株)日本ビジネス社設立。三十四年(1959)株)日本ビジネスコンサルタント設立、代表取締役社長。四十四年(1960)(株)コンピュータ・マーケティング設立、代表取締役社長。四十七年(1972) (株)京葉計算センター、(株)コンピュータ・マーケティング合併(株)日本情報開発に改称、代表取締役社長、名誉顧問を歴任。平成六年(1994)株)エヌアイデイに社名変更。

 

 

 

「今でもね、若い人が相談に来るんですよ。十数年前にね、私、言ったことがあるんです。蛇口をひねると水が出るでしょう。それと同じように、家庭の端末からコンピュータが使える時代が来るとね。水道、ガス、電気と同じようにパブリック・ユーティリティという考え方なんですよ」。北川宗助九十三歳は、今もかくしゃくとして語る。北川は日本の情報産業、情報サービス産業の生き証人である。何しろ戦前のIBM に勤務し、戦後は占領軍のもとでPCS (パンチカードシステム)の運用に従事し、さらにみずから計算センター、ソフトウエア企業の元ともいえる日本ビジネスコンサルタント(NBC、現日立情報システムズ)を起業した。

PCSとの出合い

北川は明治四十一年(1908)、千葉県佐原市に生まれた。その後暁星小学校、暁星中学を卒業、昭和三年(1928)に銀座にあった黒沢商店に入社する。当時黒沢商店はタイプライター、輸入事務用品機器を扱うハイカラな会社であった。もちろんコンビュータなどはまだ誕生していなかった頃である。しかし、大正十二年(1923)、内閣統計局をはじめとしてPCSが日本にも導入され始めていた。

PCSは紙カードを入カメディアとして、分類、集計、製表等を行なうシステムである。このシステムは穿孔機、分類機、集計機などの機器から構成されていた。昭和元年(1926)に黒沢商店は、このIBM製PCS の代理店となった。北川は黒沢商店に入社後、このIBMのPCSに出合う。当初北川はタイムシステムマシン(各部屋にある時計をマスタークロックがコントロールするシステム)、PCS、バロース社の会計機などのメンテナンスを担当した。北川は特に機械とか電気などの教育を受けたわけではないが、子供の頃から機械いじりが好きだったので苦にならなかった、というより面白かったと言う。そのうち故黒沢貞治郎社長(当時)から、ショールームも兼ねて黒沢商店の販売統計、販売分析や経理業務をPCS で行うように命じられる。PCS の機械の使い方や修理の仕方は先輩である故水品浩(後の日本IBM社長)に教えてもらい、帳票の設計、パンチから集計までのシステムはすべて北川が作った。パンチカードは四十五欄で、集計機の配線を変えることによって、アウトプットの帳票を変えることができた。つまり北川は今で言えば、コンサルタント、システムエンジニア、プログラマ、オペレータなどの仕事を一人でやったことになる。

しかし、IBMがレンタル制をとったこと、さらにレンタル価格が高かったことにより、黒沢商店によるIBM製PCS の営業は思うようには伸びなかった。さらに昭和十二年(1937)、IBMが百パーセント出資した日本ワットソン統計会計機械(後の日本IBM)が設立され、黒沢商店のPCS業務はすべて移管されてしまう。ちょうど時は盧溝橋事件から日中戦争へ戦火が拡大していった時期だった。

先輩の水品は日本ワットソン統計会計機械の設立とともに黒沢商店から移ったが、北川は黒沢社長から引き留められ、ようやく一年後の昭和十三年(1938)、日本ワットソン統計会計機械に入社する。すぐに大阪営業部長として大阪に赴任し、それまでの顧客であった日本生命、武田長兵衛商店(後武田薬品)ではPCS の増設に成功し、新たな顧客として住友生命、塩野義製薬などを獲得した。北川はこの頃、水品とともにハンドレッド・パーセント・クラブ( IBMの優秀営業マンのクラブ)入りしている。

敵国資産会社に指定

しかし、幸運は長く続かない。太平洋戦争が勃発したことにより、百パーセントアメリカ資本である日本ワットソン統計会計機械は「敵国資産会社」に指定され、代表取締役だった水品はスパイ容疑で特高に逮捕されてしまう。翌昭和十七年(1942)日本ワットソン統計会計機械は敵国資産としてすべての資産を没収されてしまう。北川を含めたすべての社員も退社することになる。退職した北川は、安藤馨たちと統計研究所を神戸に設立し、PCS の国産化や経営機械化のための人材育成に乗り出す。同年十二月には穿孔機と分類機の国産化に成功する。その後さらにPCSの国産化に興味を持っていた鐘淵紡績に入社。分類機、穿孔機、検孔機を製作、これらは内閣統計局、立川飛行機、九州帝国大学(現九州大学)に納入された。この間日本軍が占領したフィリピンのマニラなどからPCS、カードなどが大量に駆逐艦などで運ばれて、海軍技術研究所に搬入されていた。しかし、駆逐艦の甲板などに乗せられて運ばれたために、赤くさびて到底そのままでは使い物にならなかった。そこで北川らが呼び出されて、その修理を行い、これがPCS の国産化に役立った。海軍の仕事をしているということで、北川は兵役を免れた。招集令状が北川にも来たが、海軍技術研究所の担当大尉と一緒に出頭し、即日帰郷となったのである。またこの頃、神戸商大に設けられた「経営計録講習所」で機械会計論の実習も担当した。

しかし、アメリカ軍の爆撃が激しくなる中、鐘淵紡績の統計機械工場も爆撃にさらされ、ついに神戸の自宅を引き払い故郷の千葉県佐原に疎開する。昭和二十年(1945)三月のことである。

GHQ へ出頭の理由

敗戦後の昭和二十年(1945)十月、千葉県佐原にいた北川に占領軍から一通の文書が舞い込む。即刻GHQに出頭せよという。北川は、海軍が占領地から持ってきたPCSを修理したり、その国産化を行ったことから、てっきり戦犯に指定されたと思った。びくびくしながらGHQ に出頭すると、案に相違して戦前IBM に勤務した経験を生かして、占領軍に協力せよということだった。北川は胸をなでおろすとともに、こんなに早くIBMのPCS に再び出合えることを喜んだ。それから昭和三十年(1955)まで占領軍、アメリカ軍でIBM のPCS システムの運用に顧問という立場で携わる。

「とにかく感心するのは、兵隊さんが死んだりケガをしたりする場合、毎日立川からワシントンヘ無線でコードナンバーを送ります。最初の三桁が職種で、後の二桁がスキルを表すとかするわけです。ワシントンではそれを受けて、同じスキルの兵隊がヨーロッパあたりのどこにいるのかを探して、実際その兵隊を送ってくるわけです」

しかし、何しろ人手が足りない。北川は戦前のPCS の顧客先に勤めていた関係者や「神戸商業大学経営計録講習所」の卒業生などの伝を頼って、パンチャー、オペレータを確保した。アメリカ陸軍東京補給本部や極東空軍兵站司令部でともに仕事をした人々の多くが、この後コンピュータの出現を背景として日本の情報サービス産業を担うキーパーソンになっていく。

北川は占領軍、アメリカ叩の仕事をしながら、幸い週休二日制だったので、土曜日を利用して厚生年金保険者記録事務の機械化、日立製作所亀有工場のIBM製のPCS化のコンサルタントとしても活躍した。

昭和三十年(1955)、極東空軍兵站司令部の命令で、アメリカ各地にある空軍基地の機械化の状況や会計処理システムを視察し、この視察で初めて北川はコンピュータに出合う。それはIBM650型であった。このIBM650型は真空管式、プログラム言語はアセンブラである。しかし、この時コンピュータはまだ完成したものでなかったためか、北川の関心をあまり引かなかったらしい。それより関心を引いたのはヨーロッパとアメリカ本国を電話回線で結んだネットワークであった。「このシステムを見た時、これからの情報処理は通信技術なしにはあり得ないと確信しました」。

畏れにも似た感動

アメリカから帰国後、同年末に戦前の日本ワットソン統計会計機械時代の同僚であり、当時アメリカ軍で日本人従業員の教育訓練をしていた島村浩と日本ビジネスを創業。島村が社長、北川は専務に就任した。アメリカ軍において北川らのもとで働いていたPCS の経験者が入社してきた。日本ビジネスは経営者、管理者の研修、企業管理のコンサルタント、経営事務の機械化にかかわるコンサルタントを主な業務としていた。また同時にPCSを利用した計算センターも設置した。PCSとはいえ日本で初めての計算センターの誕生である。日本ビジネス創業の翌年、昭和三十一年(1956)北川は再びアメリカヘ三カ月の旅に出る。レミントンランド(現ユニシス)でUNIVAC のプログラム作成の講習に参加し、またIBM でもIBM702型について一週間にわたる講習を受ける。「私が講習を受けたレミントンランドUNIVAは、機関車みたいだったんですよ。でかくてね、なかを歩ける」。ここで初めてコンピュータの可能性を実感する。「従来のPCSは、それぞれ単能機の組合せで情報を処理していました。つまり分類は分類機で、併合・照合は照合機で、掛け算は乗算穿孔機で、加減算と製表は会計機でという具合です。それがコンピュータ一セットで一度に全部処理できるのですから能率的です。私自身プログラムを作り、実際に動かし、高度な性能、処理の速さ、正確さを目のあたりにして、畏れにも似た感動を覚えました。その時、やがて日本にもコンピュータ時代がくると確信しました」。

コンピュータに畏れにも似た感動を覚えた北川は、帰国すると日立、富士通、東芝などにコンピュータの開発、製造を進言する。「各社にハードの開発を進めると同時に、ソフトの重要性も説きました。今でいうオペレーティング・システムです。コンピュータはハードだけではだめです。ソフトも重要なのですが、製造会社ではソフトについては軽視される傾向がありました」。「当時、日立は発電機なんか作っている会社ですから、コンピュータは作って動けばいいっていうわけです。洗濯機と同じだとうことですよ。コンピュータは動かしても頭はカラですよ。そこにソフトがなければだめだということが、工場長あたりじゃ分からなかったんですね」。

そして昭和三十四年(1959)、日本ビジネス社は教育研修を事業とし、経営機械化のコンサルタント、計算センター業務を行う日本ビジネスコンサルタント(NBC)を新たに設立、北川は社長に就任する。翌年、日立製作所がコピュータ事業に進出するにあたって、NBCと事業提携したいという申し入れがあり、これを受け入れ、日立が資本金の五十パーセントを出資、NBCは日立の系列下に入った。NBC発足時はパンチャー、技術者の派遣、受託計算、PCS導入のンサルタントなどを行っていたが、日立の系列に入った後は、顧客への日立のコンピュータ導入に伴うソフトウエア技術者の派遣、コンピュータの販売支援へと業務は広がっていった。このころ例えば、後にソラン(旧MKC スタット)の社長になる北川淳治(北川宗助の甥)や日本で最初のソフトウエア専業企業を設立し、社長になった大久保茂(シーエーシー)などそうそうたる人材が入社している。

NBCにはPCSに加えて三十六年(1961)日立が独自開発したパラメトロン式HIPAC101、さらにトランジスター方式のHITAC301、翌年にはHITAC201が導入されていく。この導入されたコンピュータと従来からあるPCSを使って受託計算業務を行っていた。またNBCは、昭和三十九年(1964)の東北電子計算センターを最初に、全国各地の日立のコンピュータを設置した計算センター設立に助力する。さらに北川は大手町に一大計算センターを設立し、電話回線で顧客の企業を結んで計算業務を行う構想を立てたが、当時電話回線は開放されておらず実現しなかった。

昭和四十一年(1966)、北川は大久保らとアメリカに向かう。そこでソフトウエア開発だけで十分にビジネスになっていることを確認する。「当時、ソフトウエアはハードウエアを売るための《刺身のつま》程度のものでした。ソフトウエア開発の報酬はハードウエアに組み込まれていましたし、ハードウエアを売るための一種の付けたしでした。アメリカの実態を見て、私は確信しました。わが国でもソフトウエア開発だけで立派に事業が成り立つ時代がくる。ハードウエアとソフトウエアの価格分離の時代は近い将来必ずくる。ソフトウエアがハードウエアの市場を上回ると考えました」。そして帰国後、北川と将来出版業と情報産業が結合すると考えていた当時小学館社長の相賀徹夫が発起人となって、コンピュータアプリケーションズが昭和四十一年(1966)八月設立された。これが日本初のソフトウエア専業企業である。北川は出資をしたがNBC の社長であるため、大久保が社長に就任した。このはかNBCからもソフトウエア技術者が移籍した。ちなみにそれに遅れることニカ月、十月にはコンピュータメーカー各社が出質した日木ソフトウェアが設立される。NBCも来るべきコンピュータ時代を担う人材養成機関の一つであった。「白分の誇りというのは、良い人を育てたということだと思うんですよ。また、艮い人がたくさんいたよね」。

日本情報開発の設立

ところが同じ昭和四十一年(1966)、北川にとって最大の危機が訪れる。NBC の中核であった電子計算機部を分離して、日立システムエンジニアリング(HSE ・現日立ソフト)の設立を日立が一方的に申し入れる。そのためにNBC の電子計算機部に所属する職員四百十八人の移籍を日立から要請される。これは「ハードウエア販売は日立が、ソフトウエア販売はNBC」という提携以来の役割分担を根底から覆すものであった。「手塩にかけて育ててきた、わがNBC のソフトウエア部門を根こそぎ持っていかれるのですから、NBC の受ける打撃ははかりしれません。青天の霹靂でした。私が反対したのはいうまでもありませんが、結局日立の指示に従わざるを得ませんでした」。その後、日立システムエンジニアリングは日立本体に吸収されてしまう。

北川は残された事業、計算センター業務、消耗品販売などに集中するが、結局昭和四十一年(1966)一月、NBCおよびその関連会社の役職から退く。唯一残ったのは日立電子サービス特別顧問の肩書きだけだった。この時、北川は六十歳であった。

しかし、昭和四十四年(1969)九月コンピュータマーケティング(CMC)を設立、ソフトウエア開発、派遣、データ入力などの業務を開始する。従業員はNBCをすでに退職していたものがほとんどであった。またそれ以前の昭和四十二年(1967)に京葉計算センターが、故郷佐原に設立されていた。昭和四十七年(1972)両社は合併し日本情報開発(現エヌアイデイ)となり、北川が代表取締役社長に就任する。エヌアイデイは現在従業員八百六十人、関連会社五社をもつSI企業(システムインテグレータ)に成長している。

「NID っていう会社を作ったんですよ。ところが、しばらくやってふと考えてみたら、もう八十五歳だったんだよね。そんなにみんなの邪魔しちゃ、悪いなってことで辞め、甥の小森孝一に社長の座を譲りました」

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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