富野 壽(とみの ひさし)

◆プロフィール◆

昭和十二年(1937)静岡県生まれ。昭和三十四年(1959)東京工業大学理工学部卒業。同年構造計画研究所入社。昭和六十二年(1987)同社代表取締役社長就任。技術士。(社)情報サービス産業協会常任理事。監訳書に「ソフトウェア開発の定量化手法」「ソフトウェア病理学」「要求定義工学入門」「ソフトウェアの成功と失敗」など多数がある。

 

 

 

服部 正(はっとり まこと)

◆プロフィール◆

昭和元年(1926)東京青山生まれ。昭和二十六年(1951)東京工業大学工学部建築学科卒業、同年電気通信省入省。昭和三十一年(1956)建築設計事務所設立、昭和三十四年(1959)構造計画研究所設立。昭和四十一年(1966)東京工業大学工学博士取得。昭和四十五年(1970)ソフトウェア産業振興協会設立に参画、理事に就任、昭和四十七年(1972)から同協会会長に就任。昭和五十七年(1982)情報処理産業世界会議議長に就任。昭和五十八年(1983)一月、五十六歳で逝去。

 

 

 

 

富野壽は故服部正社長について「いやあ、もう恐ろしい人です。すさまじく恐ろしい人、要するに純粋だったんですね」と回想する。

服部は、日本のソフトウエア産業の草創期とそれに続く時期において、大変重要な働きをした。服部は「ソフトウエア産業」が「産業」として成り立ちうること、そしてその確立に努力したのである。同氏抜きに日本のソフトウエア産業の成り立ちは語れないと言っても良い。

ソフトのすべてを作る

服部は昭和二十六年(1951)三月、東京工業大学工学部建築学科を卒業、同年四月に電気通信省に入省する。しかし、昭和三十一年(1956)に建築設計の事務所を開設し、昭和三十四年(1959)五月に構造計画研究所を設立する。富野は構造計画研究所の設立の一ヵ月前に同社に入社した。構造計画研究所を株式会社組織にした時から、服部は建築設計に必要な構造設計にとってコンピュータが有力な武器になると予感していた。そのため同社設立の翌年にはコンピュータの導入手続きを開始し、昭和三十六年(1961)にIBM コンピュータを導入する。当時、同社の社員の給料がおよそ二万円であった時に、このIBMコンピュータの月間レンタル料は六十万円もした。このように大金をはたいてコンピュータを導入したものの、構造設計に利用するためには、自らソフトウエアを開発しなければならなかった。

「当時のコンピュータはまったくソフトウエアもなければ、容量もスピードも限定されたものでした。そのために構造設計、耐震設計に使うために、アプリケーションソフトウエアを作るだけではなくて、周辺のユーティリティのソフトウエア、データをいじったりするソフトウエア、そんなものをすべて作らなければならないという状況でした」と富野は語る。

そういう中で同社は次第にソフトウエア開発に事業の比重を移していく。当時を回想して、富野は次のように述べている。「本来の業務であった耐震設計とか構造設計とかの分野より、ソフトウエアビジネスのマーケットの拡大の方が速かったんです。ですから一九六○年代の終わり頃には、構造計画という名前ではありましたが、ソフトウエアビジネスもある程度の規模になっていました。当時は、おもにFORTRANとかPL/1とかALGOLなどの言語プロセッサの開発を富士通さんから受注してやってました」。

一九六○年代の後半に同社がソフトウエアビジネスにシフトするにしたがい、ソフトウエアで対価を得ることに苦労することが多くなってきた。また同社はそれまでの計算尺でやるような耐震設計とは全く異なる、耐震設計のためのコンピュータシミュレーションを手掛けていた。このコンピュータシミュレーションは非常に膨大な費用を要したが、それを顧客に理解してもらうのに苦労したという。幸いNTT の電話局や鉄道関連の建物の設計を行っていたので、そういうところでは、この耐震設計のためのコンピュータシミュレーションは先進技術の利用ということで、非常に前向きで理解が得られた。

真情ほとばしる熱血「先生

当時、社内では、服部は社長ではなく「先生」のようだったという。「部屋に黒板が置いてありまして、服部がいろいろ書くわけです。ところが興奮してやってますから、白墨がポキポキ折れるわけです。書いては消し、書いては消し、それは部下を教えるというのではないですね。それは本当に先生でした。自分の考えていることがほとばしるという感じで、ついていくのが大変でした」。

しかし、服部の役割は、同社の事業分野をソフトウエア開発へと拡大しただけにとどまらない。それ以上に日本のソフトウエア産業の確立に努力を傾注したのである。ソフトウエア企業の業界団体である社団法人ソフトウェア産業振興協会ができる昭和四十五年(1970) 以前から、服部は故池田敏雄(富士通)や通産省(現経済産業省)の平松守彦(後に大分県知事)、児玉幸治(後に日本情報処理開発協会会長)、広瀬勝貞(後に経済産業省事務次官)と親しくしていて、その中で日本の将来にとってソフトウエアは非常に重要であることを確認する。「通産省の平松さんとか児玉さんやその他の人たちと、国ないし産業を憂うということで、大分、意気投合していました。一企業のことを考えていたのではなく、産業それ自体あるいは産業を伸ばすためには優秀な人を呼んでこなくてはいけないとか、そのためにはソフトウエアに対する適切な評価がなければならない等の焦燥感があって、自分の企業なんかのことはかまっていられなかったのです」。

そして昭和四十五年(1970)、ソフトウエア企業の業界団体である(社)ソフトウェア産業振興協会の設立にも大きな役割を果たし、設立時には理事に就任している。その前年、同協会の準備のために、当時の通産省情報産業室長であった平松を含めて、ソフトウエア企業経営者の数人の会合があった。当時、その会合に出席した舟渡善作(後に日本コンピューター・システム代表取締役会長)は、通産省の支援で業界団体を作るまでになったことを感激して、思わず涙ながらに賛成意見を述べた。そして「私の意見が終わり次に服部さんの番になった。服部さんは冒頭からハラハラと涙を落とし、私と同様に声をつまらせて、『今日初めてお目にかかった大阪の舟渡さんのご感想、ご意見に全く私も同感です。ぜひこの計画を進めていただきたい。過去十年の苦難の道を振り返って、感慨無量なものがあります』という意見であった」。昭和四十七年(1972)にソフトウェア産業振興協会の会長に就任した服部は、昭和五十八年(1983)一月に亡くなるまで、十年四カ月にわたって、同協会の会長として活動を続けた。

また服部は日本ではソフトウエアに対してお金を払う姿勢が乏しいことも憂慮した。ソフトウエアのような知的生産物に対して、金銭を支払うことは優れた建築家である服部にとっては当然のことであった。「建築家の仕事というのはソフトウエア開発に非常に似ているんです。図面という形にはなりますが、デザインというもので対価を取ってるわけですから。知的産物としてのソフトウエア、あるいは目に見えないものに価値を見いだすというところに非常に思いが深かったのです」。

さらに現在でもソフトウエアの対価は、その開発にかかるソフトウエア技術者の人数と月数の「人/月」で示されることが多い。服部は、これもソフトウエアの本来の価値を低めるものと見ていた。なぜならソフトウエア開発に従事したソフトウエア技術者の人数とその期間で、ソフトウエアの価格が決定されるなら、自分たちの努力で生産性を上げる努力をしても、それは対価に反映されず、生産性を向上させようとするインセンティブも働かないからである。

服部自身は、次のように述べている。「建築家は設計料を取れます。旅館の女将さんも、設計料は払うものだという認識をもっています。建築界がこういうようになっているのは、我々の先輩がその基礎を築いてくれたからなんです。ですから、今こそ我々がソフト産業のために、この基礎を築かなければいけないんです。そうでないと、これからこの産業に参加してくる後輩に恨まれることになります」。服部がこう述べたのは、日本のソフトウエア産業の黎明期ではない。服部が亡くなるわずか一年前、昭和五十七年(1982)のことである。

連結器のようなモジュール構想

昭和四十七年(1972)前後から、服部はソフトウエアモジュールの構想を持つ。つまりソフトウエアとは複数の要素の組み合わせであり、この要素すなわちモジュールを多くもっていること、そして、うまくそれらをつなぎ合わせる技術があることが、ソフトウエアの生産性に大きく影響することを説いた。このソフトウエアモジュール構想は、直接はソフトウエア輸入自由化に対応するために説かれたものであるが、同時にソフトウエア産業の「産業」としての存在意義を示すものであった。つまりOSはハードウエアメーカーの担当であり、アプリケーションソフトウエアはユーザーサイドが開発するのが効率的であると考えられていた時代である。その両者の間にソフトウエア産業が成立する技術的基盤があるものか疑われていた。

これに対して服部は、ソフトウエアモジュール構想を掲げて、ソフトウエア産業の技術的基盤を示したのである。当時、通産省情報処理振興課長補佐だった広瀬は「私は、服部さんに黒板一杯に連結器で結ばれた列車の絵を描いてモジュールの話をしてもらった時の、目から鱗が落ちる思いを今でも忘れない」と述べている。

ソフトウエアの重要性とそれが産業的にも成立することを確信した通産省は、ソフトウエアの輸入自由化を昭和五十年(1975)まで引き延ばし、ソフトウエアモジュール開発補助金制度が作られた。さらに共同ソフトウエア開発組合の設立、協同システム開発、その後の情報技術コンソーシアムに繋がる。

さらに服部は、パッケージソフトウエアにもソフトウエア産業の基盤を見いだしていた。「ソフトウエアの流通商品を自らの手で作るということは、ソフト会社の主体性確立という点でその意義が存在する。頼まれたソフトを作成する、いわば《工賃仕事》のソフトウエア作りから、自らがもくろみをたてたソフトウエアを世に問うという壮挙である」(服部)。このため当時のソフトウエア産業振興協会の中に「ソフトウェア流通センター」を作り、パッケージソフトウェアの流通を促進させようとした。同センターは現在、「ソフトウェア情報センター」と名称を変えているが、引き続いてパッケージソフトウエアの流通、その権利保護のために活動している。

服部正メモリアルルーム

当時の服部を、富野は次のように述べている。「ソフトウェア産業振興協会ができて、その後会長になって、ある意味で愕然としたんではないでしょうか。非常に大切なソフトウエアあるいはソフトウエア産業と言いながら、内外とも認識が非常に浅い副次的なビジネスという印象で、これじゃ将来の日本は大変だという思いが非常に強かったのではないでしょうか」「ソフトウエアそれ自体、それを作るソフトウエア産業というものの確立に、本気で取り組んでいました。亡くなる頃には、社業はほとんど二、三割やっていたかどうかです。ほとんど業界のために、身命を賭けてやったというところがあります」。

服部には優れた先見性があったと富野は言う。「服部は、純粋に目指すものというか、実現したいものが高かったのですね。先見の明はあって良いのだけれど、半歩先までは良いけれど、一歩、二歩先に行ってしまうと皆ついていけないや、と服部が機嫌の良い時にはそう言っていました。彼には将来が非常によく見えたのでしょうね。当時の我々には理解できなかったことが多かったですけれども」。しかし、その服部のおかげで新しい産業を造っていくことに対する「ピュアな気持ち」がかき立てられたし、先見の明のあるリーダーがいたおかげで、実現したことも多い。その意味で服部の時代は、同社にとって「産業に対する哲学とか、理念とかいうものを、いろいろな機会に我々に話してくれた啓蒙の時代」(富野)だった。

このようにカリスマともいえる強いリーダーシップをもった服部は、昭和五十八年一月に五十六歳で逝去してしまう。しかし、服部の亡き後十八年が経過しているにもかかわらず、依然として大きな影響を与えている。富野は言う「現在では、服部に直に接した社員は二割か二割五分くらいですが、未だに非常に強い影響力をもっています」。

なお、構造計画研究所の新社屋には「服部正メモリアルルーム」が設けられている。

オタク族集団の産業にあらす

富野は、今後のソフトウエア産業についての見方に独特なものがある。「ソフトウエア産業というのは他の産業を力づけ、活性化させる意味合いをもった産業なんです。そこではデザインにしろプログラミングにしろ、主体的に高い価値を発揮できるような仕事をすれば報いられる産業になっていこうとしています。昔のように朝から晩までソフトを作っているオタク集団のような産業ではありません。むしろ問題発見、問題提起というように、自分のもっている能力と他の優れた能力を合わせて、高い価値を顧客に届ける産業になろうとしています。昔の情報産業、ソフトウエア産業ではなくて、広い視野をもってこの産業に取り組む必要があります。同時に対価の取り方、自分たちの価値を認識してもらう努力を継続的にしなければなりません。自ら主張しないと、自然には価値は認められません」。この発言こそ、服部のソフトウエア産業に対する基本的スタンスが同社では、未だに連綿と受け継がれていることを示している。

そして、この産業を目指す若い人に富野は大きな期待を寄せている。「ふるってこの産業に来なさい。頑張って能力を伸ばせばそれなりに報われます。ただし非常に激しく変化している産業なので、努力しなければ報われません。きちんと努力さえすれば報われるチャンスは大いにあります」。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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