佐藤 孜(さとう  つとむ)

◆プロフィール◆

 

昭和四年(1929)秋田県生まれ。平成24年(2012)没。昭和二十八年(1953)束北大学経済学部卒業。同年(株)日立制作所入社。昭和四十三年(1968)東北大学より経済学博士授与。勤労部門を経て昭和五十年(1975)日立総合計画研究所所長、昭和五十六年(1981)日立製作所企画室長兼務、昭和六十年(1985)から日立ソフトウェアエンジニアリング(株)代表取締役社長。平成十一年(1999)代表取締役会長。

 

 

 

 

 

日立ソフトウェアエンジニアリングの佐藤孜会長は、創業者ではない。しかし、それに匹敵するくらい同社の方向性に影響を与えた。

日立ソフトウェアエンジリアニングは昭和四十五年(1970)九月に、日立製作所「ソフトウェア工場」を中核として、日立電子工ンジニアリング、吉沢ビジネスマシン、日立芝電商事のソフトウエア部門を統合して設立された。

工学としてのソフトウエア開発

同社の社名の一部である「ソフトウェアエンジニアリング」は、親会社である日立製作所のソフトウエア開発に対する思想を象徴するものである。つまり日立製作所ではソフトウエア開発担当部門を「ソフトウェア工場」と呼んでいる。これは「ソフトウエアは工業製品として作られねばならない」という思想を具現化してのものである。日立ソフトウェアエンジニアリングの名称に含まれている「ソフトウェアエンジニアリング」もソフトウエアは工学の対象であるという考えを明らかにしたものであった。同社は日立製作所の「ソフトウェア工場」を中核に設立されたこともあって、アプリケーションソフトウエア開発にとどまらず、オペレーティングシステム、コンピュー夕言語などの基本ソフトウエアの開発に大きな比重があった。

当時、一世を風靡したのは昭和三十九年(1964)に発売を開始したIBM システム360であった。国内の各コンピュータメーカーとも、このシステム360 に対する早急な対応を迫られた。さらに昭和四十四年(1969)には、IBMはハードウエアとソフトウエアの価格を分離するアンバンドリング政策を打ち出した。これによって初めてソフトウエアの価値が明らかになったのである。昭和四十六年(1971)にはコンピュータ輸入の完全自由化が実施された。昭和四十五年(1970)の日立ソフトウェアエンジニアリングの設立も、このような厳しい市場競争やソフトウエアの重要性の高まりと無縁ではなかった。

技術情報の入手問題

国内の各コンピュータメーカーは国内市場でこそ五十パーセントを越えるシェアを確保していたが、グローバルな規模では小さなシェアしか確保しておらず、システム360 で成功したIBMが、その後も巨人として存在していた。そのため富士通、日立製作所などの国産コンピュータメーカーはIBM互換機(IBM のソフトウエアが動くハードウエア)ビジネスに進出し、昭和五十六年(1981)には初めてコンピュータの輸出がその輸入より金額ベースで上回った。順調に発展すると思われたIBM互換機ビジネスであったが、昭和五十七年(1982)に事件が起きた。互換機ビジネスでは、IBM のコンピュータで動くソフトウエアが同じように動き、かつ常にIBM のコンピュータより高機能でコストが安いことが求められる。このためにはIBMの技術情報が不可欠であったが、その入手に不正があったとして、日立製作所は事件に巻き込まれてしまう。

この事件に日立製作所のみならず、日立ソフトウェアエンジニアリングも大きな影響を受けたことは想像に難くない。というのは互換性を保障するために大きな役割を果たしているのが基本ソフトウエアであるオペレーティングシステムであるためである。前述したように日立ソフトウェアエンジニアリングのおもな事業の柱が、この基本ソフトウエアの開発であった。

チャンス到来に感謝

そのように困難な状況にあった同社の社長に昭和六十年(1985)に就任したのが、佐藤であった。昭和四年(1929)生まれの佐藤は、東北大学経済学部を卒業後日立製作所に入社、おもに労務分野を担当した。その後昭和五十年(1975)日立製作所のシンクタンク部門である日立総合計画研究所の所長に就任し、昭和五十六年(1981)には日立製作所の企画室長も兼務している。昭和六十年(1985)の社長就任は、このような困難な状況を打破することを期待されていたに違いない。当時の悔しさを次のように言う。「知的所有権問題で訴えられたこと自体、日立の社員にとっては、大変な屈辱だったのです」。さらに佐藤は言う。「若い人たちに自信をもたせて、しかも二度と知的所有権問題を起こさない会社を作らないと、日立グループにとっての情報産業での未来はないわけです。そういう使命を私が仰せつかったのだと思います」。さらに佐藤は自身の「使命」を次のように述べている。「日立製作所に入ってから、勤労担当が長かったのです。勤労というのは人間の育成とか教育とかにかかわりをもっています。精神面を含めて、会社を育てなさいということで、私がちょうどうってつけと思われて呼ばれたのかもしれません」。そして「私がこの会社でまず一番に実践したことは、若い人に自信をもたせること、誇りをもたせること、産業に対する希望をもたせることでした」

当時、困難な状況に直面していた日立ソフトウェアエンジニアリングの社長に就任を要請されて、佐藤は嬉しかったという。それには二つの理由がある。―つは「私にチャンスを与えてくれて有り難うと思いました。というのはソフトウエア業界というのは悪い業界ではありませんでしたから。当時からソフトウエア業界は将来性があるといわれていて、当時の三田社長(日立製作所)がそういう人員配置をしてくれたわけで、有り難いと思いました」。そして第二に事業部門の責任者になれることも嬉しかったという。つまり「本社勤労部門を振り出しに、工場の総務部長とか、シンクタンクの所長とかをやりました。しかし、事業部門の責任者をやったことがなかったのです。会社に入ったからには事業部門で仕事をするのは当然です。それをやらないで、補助部門ばかりやってきましたから、欲求不満がありました。何でもかんでもプラス思考といわれるかもしれませんが、こんな良いチャンスはありません。しかも社長ですから」

行動レベルで日本一の会社に

社長に就任した佐藤は、さっそく新しい経営ビジョンを示す。それが「真実一路」である。「経営者というのは細かいことはごちゃごちゃ言わず、ビジョンを与えて共感してもらって、会社をリードするのが仕事ではないかと思っています」と佐藤は述べる。現在でも、社内には様々なところに「真実一路」の言葉が掲げられている。この経営ビジョンの下に三つのコンセプトがある。第一は「顧客第一主義」、第二は「人間尊重」、第三は「真心」であり、「お客さまに誠心誠意お尽くしすることも真心だし、働く人たちを育成、指導していくことも真心に通じます」しかし、佐藤はこれらを単なる理念に終わらせなかった。これらを具体的な行動のレベルまでブレークダウンして社員に示したのである。それが「何でも良いから日本一の会社を作ろう」という呼びかけであった。「日本一といっても自分で思っているだけでは駄目で、世の中から見える格好で日本一にならなければなりません」。さらに「親会社である日立製作所の下請けにとどまらず、自主独立の会社になろう」とも呼びかけた。これらの呼びかけが、現在の日立ソフトウェアエンジニアリングの骨格を作ったといえよう。たとえば情報処理技術者資格試験では、同社のソフトウエア技術者の実に九十四パーセントが何らかの情報処理技術者の資格をもっている。またソフトウエア関連の特許登録件数も日本で一番多いという。そのために海外から特許の使用料を取るまでになっている。日本には多くのソフトウエア企業があるが、海外から特許の使用料を取っている会社は少ない。

また製品として海外で販売をしているものもある。たとえば地図入カシステムGIS Core 、放射線を用いずに蛍光物質によりDNA やタンパク質を読みとり解析するFM-BIO、遺伝子解析ソフトウエアDNASISなどが海外で販売、使用されている。「日本のソフトウエア産業の中で、海外で自社の製品を売っているのはわが社だけではないですか」とも言う。とくにターゲットをアメリカに定めた理由を次のように述べている。「何故アメリカかというと、日本のIT産業でナンバーワンになるためには、世界で一番厳しいマーケットで成功すれば良い」と思ったという。

これを支えるのが同社が経営戦略として掲げる「DIGITAL&GLOBAL のパイオニア」である。もっとも「DIGITAL&GLOBAL」を商標登録しようとしたら、国外では既に類似の商標があり、商標登録できなかったことを残念そうに語る。

このような海外への製品の販売は黒字であるものの、まだまだ同社の売り上げに占める割合は少ないという。しかし、同社の組織として技術開発本部の下に「研究部」と「知的所有権センター」が設けられている。さらに独立した部門として「品質保証本部」が設けられている。このような部門を設けている日本のソフトウエア企業は非常に少なく、同社の独自技術や製品への積極的な姿勢、こだわりを示している。またアメリカに三社、ヨーロッパに一社の子会社を設立していることも、同社のグローバル化の進展を示している。「世界に通用する製品がいくつかあれば、社員は元気が出ます。我々の会社が世界に通用する会社だと、自信がつくわけです」

下請けからの脱皮

佐藤は同社が大きく変わる転換点は、上場したことであると言う。同社は平成二年(1990)に東証二部に上場、二年後の平成四年(1992)には一部に上場した。資本金、時価総額でも日立グループの中で、日立製作所に次いで、第二位、子会社の中では「ナンバーワン」であり、これも「社員の自信」に繋がった。

しかし、上場にあたっては苦労があった。「何故、苦労したのかというと日立の下請けじゃないか、下請けが上場しようというのはおこがましいというのです。わが社は下請けではありません。日立グループ以外の外部への売上比率が三十パーセント以上あります。そういう説明をして誤解を解くのに苦労しました」

さらに、上場して日立グループ以外に顧客が広がるに従って、価格競争でも苦労があった。特にバブル崩壊以降、同業他社では本来の価格以下でも受注しようとする期間があった。同社は毎年引続き社費留学生を送り、それをオブジェクト指向技術の導入で乗り切る。さらに「ミネソタ大学から春休みに先生に来てもらって、わが社のソフトウエアの設計者二百人を教育してらったわけです。そして各部ごとにオブジェクト指向技術による設計のノルマを作りました。オブジェクト指向技術のメリットはソフトウエアの再利用ですから、工数は短縮されますし、お試し済みのソフトウエアですから信頼性、品質は保障済みです。さらにコストを削減するためにインドのタタ・コンサルタシー・サービシーズと組んで、そちらにソフトウエア開発をお願いしています」と言う。

また平成十二年(2000) から、事業領域をシステムインテグレーション、アウトソーシング、ネットワークに絞り込み、それぞれの頭文字を取ったSON による事業展開を図ろうとしている。この一環としてアイネスと提携し、資本参加した。

ベンチャーを目指す若い人たちに、佐藤は次のように述べている。「我々の世代は全部ゼロからの出発なんです。ゼロに戻れば怖いものはないんですね。経済的にも技術的にもゼロですから、そこから戦後の日本は復興してきたわけです。どんな奈落の底に落とされても、そのゼロまでは行かないわけです。どこかで止まるわけですから。そういう風に腹を決めると怖いものはないのです。絶えず自分を最悪の状況に置いて考えると、あらゆる困難は突破できます」。さらに「過去の成功体験はいらない」とも言う。「私を含めて、過去の成功体験にとらわれがちなです。だから変えるものは変える勇気が必要です。それからどうしても変えちゃいけないものもあるんですね。それを変えない冷徹さ、いくらお金を積まれても変えないものもあるんです」

佐藤は、自ら決して順調に育った男ではないと言う。「何かあると大酒を飲んで寝ちゃうとすぐに忘れてしまう。大酒飲みなもんだから、あまりこだわらず今日までやってきたんです」

ただ佐藤には忘れられないことが―つあるという。日立製作所の栃木工場では家電の冷蔵庫やエアコンを作っていたが、東京オリンピック後の不況に直撃されて、六千三百人いた従業員のうち三千人を削減した。「これは辛かったですよ。これは一生忘れられないでしょうね。若い人たちの人生を変えてしまって、本当に申し訳なかったと思っています」。

しかし、辛い経験だけではない。秋田県の廃坑になった鉱山の従業員を同じ栃木工場で三十数人採用したこともある。彼らは「お日様の下で働けると、非常に喜んでくれた一という。その彼らによって、二十数年ぶりに佐藤を囲む会が近々開かれる。

日立製作所には工学博士は多い。佐藤は昭和四十三年(1968)に、「職務給の研究」で東北大学から経済学博士を授与されている。日立グループ唯一の経済学博士でもある。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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