モバイル・コンピューティングの世界を拓く

 

入鹿山 剛堂(いるかやま ごうどう)

NTTドコモ プロダクト&サービス本部プロダクト部第五商品企画担当課長

◆プロフィール◆

 

1957年生まれ。学生時代、マイコンを利用した独自のシンセサイザーシステムを製作。東京農工大学大学院工学研究科修了。1983年、日本池脂(株)に入社。1988年、同社研究所にて業務能率向上のために日本初の本格的グループウエア「LANWORLD」を独自に開発。後に商品化。約1,000社の企業で採用される。1991年、リモートアクセスのための様々な仕組み(現在のモバイル)を開発。1993年、子会社(株)ランワールド設立に参画。1998年、日本油脂を退職。茨城県つくば市にITハウスを自宅として建築。SOHO /モバイル研究家として、執筆、講演活動などを行う。1999年、NTT移動通信網(株)(現(株)NTTドコモ)に入社。「ポケットボード」や「シグマリオン」など、モバイル端末の企画・開発を手掛ける。情報家電やホームネットワーク関連の審議会委員を務め、lT住宅の専門家としても活躍。2003年、世界初の商用版腕時計型PHS 「WRISTOMO」を企画・開発。2004年、「FOMA対応ビジュアルコントローラー(試作機)」を企画・開発。

 

シンセサイザーを自作する

「ドラえもんの『どこでもドア』は、あと十年くらいで実現します。」

そこには、当然技術的なカラクリがあっていっているのだが、入鹿山剛堂がいうと本物のそれが実現するような気にさせられてしまう。入鹿山は多才な人である。かつては日本有数のシンセサイザーの演奏者にして、CG アーティスト、商品プランナー、プログラマーなどなど。

そして現在はNTTドコモの社員として携帯端末の開発にあたっているが、他方、茨城県つくば市にある自宅をIT化して、SOHO の拠点としての可能性を探っている。

1957年、東京に生まれた入鹿山は、中学生、高校生の時代から多彩な才能の片鱗をみせていた。入鹿山は中学生の頃から家庭教師のアルバイトをしていた。成績がどうしようもなく悪い生徒も入鹿山が教えれば成績が上がるというのだから、評判を呼び、だんだんに生徒が多くなった。しかし、中学生の限られた時間では家庭教師をするのが難しくなった。そこで考案したのがティーチングマシンである。もちろん当時はマイコン、パソコンの誕生以前のことであり、トランジスタやリレーなどを使ってこのティーチングマシンを独力でつくり上げた。高校生になると、このティーチングマシンにさらに改良を加え、一定の時間内に生徒が問題をクリアーすると、テレビゲームで遊べるという機能も組み込んだ。

高校生の頃、入鹿山は趣味でテレビのコンピュータ講座でFORTRANなどのコンピュータ言語を勉強していた。そして、もう一つの趣味は音楽であった。1970年の大阪万国博覧会の頃にウォルター・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」を聴いて以来、すっかりシンセサイザーの魅力にとりつかれてしまった。しかし当時のシンセサイザーは一番安いものでも70万円くらいしており、とうてい高校生が買えるようなものではなかった。普通の高校生であるなら、ここで諦めるところである。ところが入鹿山は違った。入鹿山はシンセサイザーを自分でつくろうとするのである。シンセサイザーの生みの親であるロバートA•・モーグ博士に手紙を書いて、シンセサイザーの回路図を入手し、それを元にシンセサイザーを自作してしまう。一九七○年代の中頃になるとマイクロプロセッサー(インテルの8080など)が出回るようになり、コンピュータ雑誌の自作講座の記事を読みながら、自分で回路を起こして、ボード型のマイクロコンピュータをつくつていた。そして、そのマイクロコンピュータで最初にやったのが、自作のアナログ・シンセサイザーを自動演奏することであった。

中学生時代、高校生時代にティーチングマシンやシンセサイザー、それにマイクロコンピュータを自作することによって、結果的にはアナログ回路、デジタル回路、そしてプログラミング技術を独学で身につけたと入鹿山はいう。また、入鹿山は生物学にも興味をもっていた。

中学生時代の作文には、将来「遺伝子の外科医」になりたいと書いた。今のバイオテクノロジーの展開を入鹿山は予感していたのかもしれない。

 

次々と浮かぶアイデアを実

このように様々な分野に興味をもっていた入鹿山だが、高校卒業後は東京農工大学で化学を学ぶ道を選ぶ。他の学問は家にいてもできるが、化学だけは実験装置が必要なので家では学べないというのが、その理由である。コンピュータ・サイエンスや情報工学を大学で勉強するつもりはまったくなかった。というのはコンピュータはあくまで道具であり、それ自体を学ぶことには興味がなかったからである。たしかに高校生の頃、すでにシンセサイザー、マイクロコンピュータを自作していた入鹿山にとって、化学以外のものは独学しようと思えばいくらでもできるように見えたのだろう。

大学に入学してから、入鹿山はシンセサイザーを利用した音楽制作のプロジェクトチームを仲間とともに立ち上げ、本格的に活動を開始する。このプロジェクトチームは日本ではじめて、本格的にシンセサイザーを利用したCM音楽を提供した。さらにつくばで開催された科学博覧会でも、シンセサイザーを活用した「無限音階」などを発表している。大学時代の入鹿山の活動は音楽方面だけにとどまらない。デパートのディスプレイの企画・設計も手がけた。たとえはクリスマスの贈り物にリボンが結ばれていて、それが解けるような仕掛けのディスプレイをLED(発光ダイオード)とそれを制御するマイクロコンピュータ実現した。最初コンセプトだけ考えればよいということであったが、装置がなかなかできないので、つい装置の作製にまで手を出してしまった。あげくの果ては、設置まで依頼されたが、期日ぎりぎりになり、デパートは開店してしまった。お客さんが見ているなかでハンダごてを握って、ディスプレイを完成させなければならない羽目に陥ったのだ。また、デパートの壁面にネオン管でクリスマスツリーをつくり、レーザー光線を当てるとツリーが浮かび上がるというディスプレイも考えた。「このためレーザー光線がどれくらい飛ぶか知る必要がありました。当時最大出力のレーザー光線を池袋のビルの屋上から上空の雲に向けて照射する実験をしました。ところが池袋周辺では、 UFO が出現したと大騒ぎになっているのでびっくりしました。」と回想する。

これ以外にも、シンセサイザーのミュージシャン、商品プランナー、イラストレーター兼CGソフトウエアのアの開発者として活躍し、さらに、この時期の入鹿山は多くの音楽雑誌にコンピュータミュージックやシンセサイザーの解説記事を執筆している。そして1983年、大院修了後、化学メーカーである日本油脂に入社する。入社後研究所に配属されて、バイオリアクター、人工臓器、光コンピュータ向けの素子などの研究に従事する。バイオリアクター、人工臓器は以前から興味をもっていた生物学の分野であるし、光素子の研究は未来のコンピュータにつながる。本人が意図したのか意図せざる結果だったのかは分からないが、大学での専攻である化学をベースにしながら、きちんと自分の興味を活かした研弥分野であることは確かだ。

 

日本初のグループウエアの開発

1987年、入鹿山には大きな転機が訪れる。その頃、研究所に配属されたのはよいが、雑務が多くて研究に専念できないのが悩みの種であった。「会社のQCサークルで、パソコンLANシステムの構築を提案しました。ネットワークでデータを一元的に管理できれば、雑務は相当減ると考えたからです。ところがパソコン用LANシステムのアプリケーションソフトウエアがまったくなかったので、電子メール、会議室予約、電子会議、掲示板、スケジュール管理などのソフトウエアを自分たちで開発しなければなりませんでした」。しかし、その後も課題はあった。若い社員は喜んで使ってくれるのだが、中高年の管理職はキーボードアレルギーからか、使ってくれない。当時、パソコンはMS-DOS の時代であり、様々なコマンドを打ち込んで操作する必要があった。だが管理職が使わないと、このシステムの意義は半減する。そこでMS-DOS上で、アイコンとマウスで操作するようなシステムに改良した。その結果、中高年の管理職もやっとLANシステムを使ってくれるようになったという。

このパソコンによるLANシステムは社外でも評判となり、引き合いもくるようになった。

そこで、社内ベンチャーとして一九八九年に事業化することが決まり、1990年には「データショウ」に出品した。「IT コンサルタントである知り合いの会津泉さんが、アメリカでは、このような分野の製品をグループウエアと呼ぶ兆しがあると教えてくれたので、グループウエア『LAN WORLD』という商品名にしました。接続する端末数が無制限で三百七十万円という価格をつけて、当初の目標は年間二十本にしました。しかし実際にはその十倍以上も売れてしまいました。コンピュータ・メーカーや電機メーカーも買ってくれたのですが、当初、私たちは、同じような製品を出す参考に購入したのだと思っていたのです。ところが、これらのユーザーを訪問してみると実際に想定した以上に使い込んでくれていました」と入鹿山は語っている。その頃にはユーザーは一千社にまで増加した。そのため一九九三年、親会社から分離独立して子会社のランワールド社が設立され、入鹿山もこの会社と兼務になった。

このように好評を得たグループウエアのLANWORLDであるが、新たな問題も出てきた。外出した社員から、受信メールやスケジュール確認の電話が多くかかるようになったのである。そこで外部からLANシステムにアクセスする仕組みをつくることになる。「もちろんスケジュールはプリントアウトできるのですが、そんなことは誰もしません。そこで電話をかけるとメールやスケジュールを音声合成で読み上げたり、宿泊先のホテルのFAXに出力できるような仕組みをつくりました。さらに電子手帳とポケットモデム、音響カプラでアクセスできるようにもしました」。今でこそノートパソコンや携帯電話などでホテルから会社のコンピュータにアクセスするモバイル・コンピューティングは珍しくもないが、入鹿山は一九九○年代初頭にそれを実用化していたわけである。「1990年代前半はグループウエアの専門家として、後半はモバイルの専門家として記事の執筆や講演の依頼が相次ぎました」と入鹿山は語る。ところが親会社は方向性を修正し、入鹿山たちに社内システムの開発に専念するように命じた。この頃にはLANWORLD のユーザーは二千社に達していた。このためサポートを別会社に委託したり、事業の一部を新たな会社に移し、そこで引き継ぐような対応をとってLANWORLDのサポー卜を続けられるようにした。入鹿山自身は、当時、会社の給料より原稿料や講演料の方が多くなる傾向があったので、1998年に退職して、独立する。そしてSOHO(スモール・オフィス・ホーム・オフィス)のためのIT住宅を建設する。このIT住宅では、すでに外部から携帯電話を使って家の中の状態を確認したり、雨戸やカーテンの開け閉め、テレビや照明・エアコンのオン・オフなどが可能となっていた。

 

携帯端末「sigmarion」の開発

しかし、1999年二月、入鹿山は奇しくもiモードサービスを開始したNTT移動通信網(現NTTドコモ)に入社する。「一人でやっていてもできることには限りがあります。当時、有名なIT関連企業の人と、あるアイデアについて話をしたところ、それがいつの間にかその会社の製品として発売されてしまったというようなこともありました。」と入鹿山は入社前のことを振り返っている。

NTTドコモに入社した入鹿山は、携帯端末の開発を任される。まさに「モバイルの専門家」としての役割が入鹿山には期待されていた。その結果2000年9月にはsigmarion(シグマリオン)を発売した。2001年にはsigmarionII、2003年にはsigmarionIIIが企画、開発されている。入鹿山は一貰してこのsigmarionシリーズに開発責任者として関わっている。sigmarionはタッチタイピングが可能な最小のキーボードをもったPDAというコンセプトに基づいている。そのために、キーピッチはタッチタイピングできるぎりぎりの大きさの十四ミリになっている。このsigmarionの開発では、大きな苦難も入鹿山は味わった。初代s1gmanonは、データ通信をする場合、「P-inComp@ct」というデータ通信専用のPHSカードを使うことを想定して開発した。ところがsigmarion本体からノイズが出て、それをP’inのアンテナが拾ってしまい受信感度が下がってしまった。そこで、本体をシールドするなどの対策をし、それまで販売したsigmarionを回収して無償で取り替えをしたのだった。このsigmarion などPDAに搭載するソフトウエアは世界中のソフトウエア企業をウォッチして、最適なものを選択するようにしている。たとえばsigmarionⅢに搭載されている。ピクセルブラウザーはスコットランドのピクセル・テクノロジーズ社が開発したものである。これはsigmanonのような小さい画面しかない PDAに適 し た も の で、全 体 を 表 示 し た り 、部 分 を 拡 大 表 示 し た り 、あたかも紙のように自由にスクロールすることが、画面にタッ チするだけで簡単に行える 。また他のPDA用に提供した手書き文字認識のソフトウエアはスウェーデンの企業が開発したものである。コンセ プ ト に 合 い、優 れ た ソ フト ウ エア技 術 を も つ会 社 を 見 つけ 出 し て、その時開発している携帯端末に合うように規格や仕様をつくり、それに基づいて開発を依頼する。この他、入鹿山は2003年には世界で最初の商用版腕時計型PHSである「WRISTOMO」を企画・開発している。ただ、入鹿山は単なる携帯端末の企画・開発者ではない。最終目標は携帯端末でつながる世界、ライフスタイルを提案することであり、携帯端末の企画は、その手段に過ぎない。

 

オリジナリティーの重要性

「技術者という意識はありません。クリエーター、新しいもの、新しい市場をつくるのが生き甲斐なのです」。確かに入鹿山の活動は、通常の技術者としての域をはるかに超えているといえよう。オリジナリティが重要だと最初に教えてくれたのは、小学校一年生の時の先生だという。「クラスに勉強はできるが、絵だけ苦手な子がいたんです。それで彼は図画の時間に私の描いた絵を、そのまま真似て描いたんです。そうしたら先生は私の絵は誉めたのですが彼の絵は誉めないのです。それでオリジナリティーにが重要というの値基準ができたようなきがします」。またNTTドコモのプロモーションビデオ「2010年ビジョン」に登場する技術も、前述のIT住宅のようにすでにほとんどが技術的には実現可能な段階だという。「後はいかに商品にするかだけです」と入鹿山は、さらりという。そして商品のコンセプトづくりでは「ユーザーの立場に立って、使い勝手の良い商品をつくることが大切です。単にバージョンアップを繰り返して、あまり使わないような機能をつけ加え、基本的な使い勝手がかえって悪くなるようなものは、あるべき姿ではありません。使う人の心を忘れないことが大切です」と語る。この入鹿山でさえ「IT分野は技術進歩が激しく、先を予想できない世界です」という。しかし同時に「子供の頃の夢が実現する世界、ドラえもんの世界が現実になる世界です。これからの時代は、自分の個性をどう発揮するかが重要です。一番の理想は組織のために個が犠牲を強いられるのではなく、個が満足をして動いていって、それが全体では結果として目的の実現につながることです。組織内で自分の立場を理解し、自分の責任を果たすことが必要です」と説く。そして最近の入鹿山は管理職として「教育者」に近いと自己評価し、「自分の役割を見出させて、コミュニケーションを図り、個人を全体と調和させていきます。個人の持ち味をうまく伸ばしていくと、結果として良いものができて、良い仕事をしてくれます。]」と語っている。入鹿山の心残りは化学や生物学の分野でやりたかった画期的な仕事がまだ実現されていないことだという。その新しい構想は今でも入鹿山の頭のなかにあるのだが、今は、情報通信の世界で夢の実現に全力で取り組んでいる。

(takashi umezawa)

注 注 所属、役職等は取材時のものである。

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