テクノロジーのかちを生かすプロジェクトづくり

鵜川 寿信(うかわ としのぶ)

(株)野村総合研究所

執行役員証券システム事業本部長

 

◆プロフィール◆

 

 

 

1953年生まれ。1977年、電気通信大学卒業。同年、野村コンピュータシステム(現(株)野村総合研究所・NRI) 入社。金融・証券分野のシステム開発に従事する。

その後、国際証券 (現三菱証券)に出向(システム企画部長・IT 推進部長)。2001年10月から、システム開発の責任者として国際証券の基幹系システムの全面刷新に取り組み、「営業店・電話・インターネットの3 チャネルの完全統合」「24時間365日稼働」 「中核部分のサーバーヘのUNIX 機の全面採用」 を実現する大規模システムを9カ月という画期的な短期間で完成させる。

 

 

 

「原理原則」への興味

鵜川寿信は1953年に広島県で生まれた。この四年後の1959年は、旧ソ連が世界初の人工衛星、スプートニクを打ち上げた年である。世にいう「スプートニク・ショック」が起こり、アメリカなどでは遅れてはならないと多くの科学啓蒙書が出版され、日本でも翻訳書が多数刊行された。鵜川はそれらを読みあさるうちに、ものごとの仕組みや原理原則がどのようになっているかに深く興味を持つようになった。修道中学校時代からアマチュア無線を趣味とし、同高校では物理班で活動する。そして、電気通信大学では物理工学を学ぶ。工学系の大学で機械工学、電子工学ではなく、「物理」を冠した学問を志すあたりは、やはり「ものごとの原理原則」に対する興味の深さがうかがえる。もっとも、大学時代は山岳部に所属してお り 、本人は「工学部を出たというより、山岳部を出た」といっている。

大学で鵜川はコンピュータに出会う。卒論で高分子物理をテーマとした鵜川は、コンピュータセンターでシミュレーションを行う必要があり、当時の誰もがそうであったように、自分でシミュレーション用のソフトウエアをつくる。「シミュレーション用のソフトウエアをつくっているうちに、ソフトウエアというのは創造的であることが分かりと語る。、そこに興味を持ちました」と語る。

大学でソフトウエア開発に開眼した鵜川は、1977年、野村コンピュータシステム(現野村総合研究所NRI)に入社した。コンピュータメーカーよりも、受託計算サービスなどユーザー向けの幅広い業務をしているところが気に入ったからだ。

入社後の鵜川は一貰して、金融・証券分野のシステム開発に従事する。同分野の基幹業務システムは、高い信頼性、即時性、可用性が強く求められることから、そのオンラインリアルタイムシステムの開発・保守では、大きなプレッシャーがかかる。若い頃の鵜川は、その緊張感に生き甲斐を感じていた。一方、「コンピュータ機器の故障がきっかけでオンラインシステムが止まった時、そのシステムの再起動に向けた回復処理プログラムに不具合があって、マシンルームで脂汗を流しながらプログラムを修正したこともありました」と当時を振り返る。

 

三回の出向

一貰して金融・証券分野のシステム開発を行っている鵜川だが、これまで出向を三回経験している。最初は、一九九四年に大手証券会社のシステム企画部次長としてBPR (ビジネスプロセス・リエンジニアリング)の推進に携わった。その後、準大手証券会社の国際証券(現三菱証券)ヘシステム企画部長として出向。そして2001年10月からは、同社にIT推進部長として出向した。またこの間NRIで人材開発部長、プロジェクト監理部長も経験している。剃川の本領は顧客先に乗り込み、そのシステム開発を指揮するところにある。

2001年10月からの国際証券への出向の時、鵜川はUNIXサーバーを採用し、営業店、電話、インターネットの三チャネルを完全統合したシステム開発プロジェクトのマネジメントを行った。この24時間356日稼働の基幹システムは、開発するのに通常1年半以上かかるものである。しかし、それをわずか9カ月という短期間で完成する離れ業を見せた。出向を通じて鵜川は、単にシステムをつくるだけでなく、顧客の立場に立って、ビジネス戦略を的確に支援する、役に立つシステムの開発を強く意識するようになった。

「経営が目指すものをキャッチして、それにうまく合ったシステムをイメージし、それにIT(情報技術)をうまく利用することがポイントです。ただ闇雲にシステムをつくるだけではつくり屋の自己満足となってしまい、全く意味がありません」

そして、そのシステムは「経営、並びに現場の利用者、その会社の最終顧客から見て価値のあるものでなければならない」とし、経営の目的にあったソリューションを提供することこそ真のシステム開発であるとする。このため出向先のシステム企画部門では、経営、営業部門、本社関連部署などとのパイプづくりを積極的に行い、経営の目的に沿った、その会社の顧客の役に立つ仕組みの整備を活動方針として、その部署の組織文化そのものを変えるところまで踏み込んで行う。この意味で鵜川の役割は、単なるシステム開発だけではなく、企業の経営戦略とも密接に関連していることになる。

つまり、鵜川にとってシステム開発とは、単にコンピュータシステムをつくることではなく、広い意味での「IT系」プラス「人間系」の広義のシステム(仕組み)を開発することであり、これが面白いという。

 

システム設計は「思い致す心」

「システム開発には現場をよく知る人とチームを組むことが必要です。単に現場を知っているだけの人ではダメで、現状に対して問題意識を持っている人でなければなりません」と鵜川はいう。つまり、単に現状の業務を知っているだけの人と組むと、現在の業務をコンピュータというツールに載せただけのシステムしかできない。これでは、現在の業務を改善して、サービスなどの生産性、品質を向上させたことにはならない。このようなシステム開発は業務改革にはつながらない。

現状に前向きの問題意識を持った人は、すでに現在の業務の欠点を把握しており、漠然としていても問題解決のヒントを持っていることが多々ある。そのアイデアも取り入れてITを活用していくことにより、早期に、かつ的確に現在の業務の問題を克服できる。つまり、業務改革を実現するシステム開発が可能となる。

また、最適なシステムは時とともに変化するものであり、システムの設計には「思い致す心」が重要である。顧客のことを、どこまで本気で考えているか。この「思い致す心」を通して、顧客が本当に欲するシステムの開発につなげていく。「思い致す心」は想像力でもあり、それが構想力にもつながり、さらに技術力を発揮することで形になる。

「とくに今日では、証券•金融系のシステムは社会基盤であり、高い信頼性、安全性などが必須です。そのため新しいITを評価しながら、その特性に応じて技術を使い分けていく、タイムリーかつ適切にシステムに取り込んでいくことが重要です」と鵜川は力説する。

 

強いリーダーシップ

川の場合、顧客先に出向の形で行ったが、出向先のプロジェクトチームあるあるいは開発パートナー部隊をも指揮する立場であった。当然、様々なプレッシャーがかかる。その中でプロジェクトをスムーズに進めるためには、顧客先に早くとけ込むことが必要である。その秘訣は早めに鵜川自身の姿をさらけ出してしまうことにある。そうしないとシステム開発の修罹場はくぐれない。

実際、システム開発の過程で意見が合わず、机を叩いたり、怒鳴り合ったりしたこともあった。価値観の違う人がプロジェクトチームに入ることを歓迎する鵜川だが、根本的な意見の相違があればプロジェクトチームからはずれてもらう、という強いリーダーシップを発揮することも忘れない。

だから鵜川は、現在の自分の役割は「異質な専門性を発揮するための場をつくり、知恵を結集して、お客様の側に立ったシステム開発をすることです」と語る。そのため様々な専門性を持った部下の能力を活かしながら、顧客の目的の実現に向けてベクトルをすり合わせて行くことが重要になる。一方、顧客の側は、ビジネスにおけるIT利用効果の最大化に向けて、何のために、何をやろうとしているのかを明確にして、適切な課題設定を行うとともに、開発パートナーと、それぞれビジネス・業務面とIT ・システム構築面における専門性をぶつけ合いながら、切磋琢磨し学習していける協働関係(パートナーシップ)を確立することが求められている。

「価値を生むようにITを活かしていくのがプロジェクト・マネジメントです」と鵜川はいう。

 

冬山登山とシステム開発

鵜川は「システム開発はある程度、先を見通してやらないといけません。先を見通せないとリスクが大きくなるし、プレッシャーも大きくなります」という。「大学の山岳部を卒業しました」と語るだけあって、鵜川はシステム開発を、よく冬山登山になぞらえる。

登山の準備・計画段階では、「①何のために、どこに登るかの検討、②どのルートから、③どういう行程で登るのかの検討、④偵察登山の実施、⑤露営、氷雪歩行などの技術、体カトレーニング、⑥装備の調達、食糧計画の作成、⑦パーティー編成と役割分担の決定」が必要である。これらはシステム開発の準備·計画段階おける、「①目標の明確化、②プロセスの策定、③スケジュールの作成、④プロトタイピングの実施、⑤スキルのチェックと補強、⑥開発環境の整備、⑦開発体制決め」にそれぞれ対応している。

また、登山における実行段階では気象情報をもとに天候の予測をするが、これはプロジェクトの環境変化の把握にあたる。さらに、メンバーの疲労度と行動計画のチェックは、進捗管理にあたる。そして最後に、悪天候に遭遇した場合、このまま前進するか、あるいは撤退するかの判断には、リーダーによる的確な現状把握とリーダーシップの発揮が必要であり、リーダーは「有事」には先頭に立たなければならない。つまり、冬山登山とシステム開発とは「目標をいかにして逹成するか」という方法論が同じだという。

もっとも、システム開発では、冬山登山の方法論に加えて、期限、コスト、品質のバランスがとれた計画、顧客をも含めた関係者との緊密なコミュニケーションといった条件も課せられると述べている。

 

苦境脱出の妙手はない

冬山登山では、様々な変化を考慮していても想定外のことが起こる。システム開発も同様で、先を見通しているつもりでもトラブルは起こる。

大手証券会社の業務改革のためのシステム開発の際、鵜川は最大のピンチに直面した。「方向は分かっているのだが、先端技術の活用などにおいて、ジャングルの沼地に足を取られながら進む」ような苦労を味わったという。それらの経験から、「リスク管理の基本は、情報の共有にあります。オープンな組織運営を行い、例外事項に対して適切な判断を下し、現場が自律的に行動して創造性を発揮するためには、情報を共有することが不可欠です。当然、これだけやっておけば十分というものはありません。想定外のことにいかに手を打っていくかがポイントです」と述懐する。

しかし、現実に苦境に陥った時に、これを切り抜けるうまい手段はない。必要なことは、開発の現場に飛び込んで、今何が起きているのかを、「伝言ゲーム」ではなく、自分の目で見て耳で聞いて知ることだ。そして、時には場の雰囲気を変えてみることも必要である。酒でも飲みながら、リーダー、サブリーダーたちとフラットな関係でワイワイ議論していると、苦境に陥ったシステム開発から脱出する方法として、思いがけない知恵が浮かぶこともあるという。

剃川は、ただ情熱や忍耐だけを求めても、苦境に陥ったシステム開発は乗り切れないと冷静に見ている。人間は基本的に創造的な生き物である。しかし、技術者が「仕事のやりがい」を見出せるような状況をつくらないで、ただただ「ガンバリ」だけを強調していては、システム開発の苦境から抜け出すことはできず、そのような状況に技術者は耐えられないと見る。

 

人間は多様

鵜川は1982年と、野村コンピュータシステムと旧野村総合研究所が合併した88年の2年間、従業員組合の事務局長、委員長となり、システム開発の現場から離れていた。当時の鵜川には、自分が職場を抜けたら職場は大変なことになるという自負心があったので、従業員組合の執行部に推された当初は、「俺の人生を勝手に変えるな」とさえ思った。しかし上司は、鵜川が従業員組合の執行部となり職場を抜けることに反対しなかった。「あえて、お前はいらないといわれました。これは大変なショックでしたが、今思えば大変ありがたかった」と鵜川はいう。

この組合委員長などの経験を通して、人間は様々な価値観を持っていること、一人では限界があり、異質な人たちが協力し合うことが必要であることを学んだ。そして人は望んだとおりには、なかなか動いてくれないことも学んだ。これらの貴重な経験は、後に鵜川がプロジェクト・マネジメントを行う際に、十分活かされている。

その後、鵜川は再びシステムの現場に戻ってきた。そして、その当時から業界が直面していたダウンサイジングの波にも、それほど困ることはなかった。確かに大型汎用コンピュータからクライアント・サーバー型へとシステムの構成は変化したが、「原理原則」に変化はないと見て取ったからである。「システム開発のスピードは確かに速くなりましたが、技術的なギャップは感じませんでした」。いかにも「ものごとの原理原則」に興味を持っていた鵜川らしい。IT分野では今後、企業のシステムだけではなく、生活の様々な分野に入り込んだ「ユビキタスネットワーク」といわれる社会システムのニーズが高まると見る。

システム開発は若い人たちにとって「夢のある仕事」である。仕事における自己実現を目指す人、考えることが好きで、ものをつくり上げることや、人の心を満たすことに喜びを感じる人には最適な仕事だ。そして、この仕事に就くためには、視点を変えて顧客の立場に立って物事を考えられる、すなわち「物事を率直に見られること」、「フレキシブルな思考ができること」が必要であると鵜川は助言する。

(takashi umezawa)

注注 所属、役職等は取材時のものである。

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