奥田 耕己(おくだこうき)

◆プロフィール◆

昭和十二年(1937)和歌山県生まれ。昭和三十三年(1958)和歌山大学経済学部入学。その後会計事務所、大阪計算代行を経て、昭和四十一年(1966)丸栄計算センター(株)設立。昭和六十年(1985)トランス・コスモス(株)設立、代表取締役社長に就任、平成十年(1998)代表取締役会長就任。この間昭和五十九年(1984)(社)情報サービス産業協会常任理事を務める。昭和六十三年(1988)から(社)束京商工会議所サービス・情報産業部会常任委員をつとめる。

 

 

 

トランス・コスモスは従業員約五千人を擁する東証一部上場のIT企業である。これを一代で築き上げたのが、奥田耕己である。                   I

まずデータ入力業務

昭和十二年(1937)和歌山県に生まれた奥田は、昭和三十三年(1958)に和歌山大学経済学部に入学するが、昭和三十六年(1961)に中退。その後会計事務所に勤務し、そして大阪計算代行に入社する。大阪計算代行は大阪地域における計算センターの草分けであったが、数年後に資金的に行き詰まり倒産してしまう。大阪計算代行には後にCSKを起こした大川功も勤務しており、奥田と親交を結んだ。奥田は「僕は彼とは特に親しかったものですから、まあ同業者の中では戦友みたいなものです」と回想する。また、大川がCSK の前身であるコンピューターサービスを設立する時にはサポートをしたという。ただ奥田は「うちの方が少し早く、この業界に入っていたものですから」と言って多くを語らない。

大阪計算代行で計算センターの業務を学んだ奥田は、コンピュータ関連事業を起こそうと考え、まずデータ入力の業務を開始する。というのは当時、大阪はマーケットとして、当初から計算業務を主にした計算センターでは採算が合わないと判断したからである。

奥田は、サントリーの経営に非常な感銘を受けた。サントリーは、後にウイスキーで大成功を収めるが、創業の当初は「赤玉ポートワイン」を作って販売、これをウイスキー作りの基盤とした。これに習って奥田は収益の上げやすい事業を、まず立ち上げようと考えた。

当時、大阪地区は東京地区と異なりコンピュータメーカーが存在しなかったので、彼らを相手とするソフトウエア開発の仕事もほとんどなかった。大阪地区にあったコンピュータ関連の業務は、大会社を顧客としたデータ入力業務、コンピュータのオペレーション業務、計算センターとしてコンピュータを導入しての計算業務、という三つの選択肢しかなかった。その中で奥田が選んだのがデータ入力業務であった。「入力の仕事というのは、どんなに増えてもお客さまにとってはやりたくない仕事なんです。それに計算業務というのはイニシャルコストだけではなく、ランニングコストもかかって投資効率が悪いのです」。そして昭和四十一年(1966)に、現在のトランス・コスモスの前身である丸栄計算センターを大阪に設立する。

父から学んだコスト意識

同社は計算センターといっても、設立から数年はおもに入力業務に特化した。「私はパンチ(入力)センターを作りまして、中途半端じゃなしにその仕事を徹底してやりました。恐らく数年間で相当な実績になったと思います。あまり計算センターにはこだわりませんでした。安易に計算センターにはしなかったのです」。データ入力から計算センターヘと転換する企業が多い中で、この時点で安易に計算センターの途を選ばなかった、奥田の思い切りはすごい。以前勤務していた計算センターである大阪計算代行が潰れてしまったということが、この判断の裏にはあるのかもしれない。そして同社は、徐々にコンピュータ・ユーザーオペレーション業務、ソフトウエア開発業務の受託にも進出して行く。

この創業当時の苦労は、一番の戦力であるパンチャーとなる女性の採用であったという。さらに資金繰りにも苦労した。この時期、奥田はコスト意識を父親から徹底的に仕込まれた。「小さい会社ですから資金的に行き詰まります。二十五日に給料を支払わなきゃならないのに、月末になってお金が入ってくる。五日間だけ資金が間に合わないということが起こってくるんです。幸い事業をやっていた親父がおりましたから、貸してもらいに行くわけです。そうすると先付けの小切手を切らせて、貸してくれるんです。当時は二十九歳の自分の子供にそこまでするかと思いましたよ。しかし、当時の父親の態度が今の私を作りました。親父がそうかいそうかいと言ってお金を出していたら、事業家としての闘争心は生まれなかったと思います」。このような経験を通して、奥田は事業家にとっての資金の重要性、コストに対する厳しさを教えられた。「事業というのは自分で資金を作っていかないと駄目だ」ということを実践を通じて仕込まれたのであり、それは現在でも生きているという。

昭和五十一年(1976)、同社は東京本社を開設する。奥田には、東京地域が最大のマーケットであり、そこへの進出は予定のことであった。「東京に出て如何にして全国的に事業を広げるかを考えました」。そのために東京本社開設の一年前に和歌山支社を設置、パンチャーの要員確保の手を打っていた。東京本社開設時は、大阪と和歌山から三十人ほどのパンチャーに東京本社に転勤してもらい事業を開始した。大阪時代からの取り引きがあった朝日新聞社と大林組が最初の顧客となった。しかし、それ以外の顧客の獲得には苦労したという。また東京の高い生産コストにいかに対応するかということも難しかった。

多彩な事業内容

そして東京進出を果たした同社は、同時にオペレーション業務、ソフトウエア開発業務の要員の受託へと業務を広げていく。しかし、奥田には業務を多角化したという発想はない。もともとの狙いは、顧客のコンピュータ関連を中心とした業務をすべて受注することであった。「コンピュータ部門を含めてユーザーの業務そのものをすべて我々が受注したいというのが基本的な私の考えです。それにはいきなりすべてといっても相手にしてもらえませんから、入り口のところから、まず仕事を獲得していくという考えです。ですから比較的競争相手の少ない、入カ、オペレーションから入って、その間に体力がつけばソフトウエア開発もやらせてもらうという展開です」。つまり奥田は、今でいう「アウトソーシング」を初めから目指し、その突破口としてデータ入力に着目したことになる。

この結果、現在のトランス・コスモスの守備範囲は広い。コールセンター業務からWebサイトのデザイン、コンテンツの作成、その運用まで手掛けている。またAsp (アプリケーション・サービス・プロバイダ)、データベース・マーケティング、Webオーダーマネジメント、Web事務局サービスなど、情報処理オペレーションを中心として、それに付随する各種の業務を行っている。コールセンターは東京の他、大阪、北海道、沖縄の四カ所に設置している。この意味に置いて同社の業務は通常の情報サービス企業とは呼べないほど、その事業内容は多彩である。つまり、奥田が当初意図したように顧客のコンピュータ関連業務だけにとどまらず、それを中心としながらも、あらゆる業務を受注するという体制が整っている。しかし、現在の体制で日本国内の顧客には対応できるが、ワールドワイドには対応できていないことを奥田は残念がる。「我々がワールドワイドに対応できれば、全世界で同一レベルの同一のサービスが受けられるわけです。今後はそうなっていかないと駄目だと思います。しかし、昔考えたことは決してはずれていないと思います」

この間「オイルショック」、「バブル崩壊」など、厳しい状況にも直面した。たとえば、確かにバブル崩壊の時期には同社でもソフトウエア開発の仕事は大幅に減少した。しかし、情報処理オペレーションを業務の―つの柱としていたおかげで、何とか影響を最小限度に押さえることができた。「バブルがはじけても、コールセンターを含めてオペレーションの仕事は、自分のところの将来を支えるものだから減らさないとお客さまから言っていただきました。それだけ地味に努力する仕事なのですけど」。もちろんコストの削減にも非常な努力をした。

しかし、現在奥田による事業展開はトランス・コスモス一社にとどまらない。子会社、関連会社の形で二十社ほどの、インターネット関連分野を中心とするIT企業を国内に設立している。さらに、この他二十五社ほどのIT企業にも投資を行っている。これら新規事業を子会社、関連会社で展開するのは、責任を明確にするためだという。「私が新しいことを始める時には、最初から子会社を作るわけです。何故かというと責任の所在を明確にするためです。また子会社でやると事業の実態がよく見えます。もともとはコスト意識から出た発想です」。

常に世界を視野に

さらに奥田は日本のみならず、国際的にも事業を展開している。現在、アメリカ、中国、韓国、台湾、香港に子会社、関連会社を展開している。特にアメリカにはトランス・コスモスUSAを設立し、ソフトウエアのローカライズ事業とともに、ベンチャーキャピタルとしての活動も行っている。このように同社のアメリカでの活動は目覚ましいものがある。アメリカに進出した理由を、奥田は次のように述べている。「創業が大阪で、東京に出てきました。やはり東京に出て、東京に本拠をかまえて全国で事業をやることで日本の会社として認知されました。しかし、日本の会社として認知されても、世界から見ると島国でちょっと成功した程度なんです。これからはアメリカというところを無視して我々の事業は成り立たないということです。インド人も、中国人も、イスラエル人も、ヨーロッパの人もいて、自由なアメリカで新しいものを作ろうとしている。アメリカはそういう意味で世界市場なんです。それを日本はどう活用していくかを考えることが、すごく重要なんです」。アメリカに設立したトランス・コスモスUSAは既に八十社以上に投資しているという。もちろんすべてIT関連企業である。

奥田の母方の祖父は、アメリカに移住し、苦労の中でホテル事業を起こした。しかし、祖父の死により結局すべてを処分して、祖母と母は帰国したという。このようなこともあって奥田のアメリカヘの思い入れは強い。

そして中国は、現在はシステム開発の生産基地であるが、そこを通して中国マーケットの情報を集めているという。「五年先、十年先には、中国はすごいマーケットになると思います。その時になって、ノウハウを集めに出ていくよりも、早めに進出しているのです」。

そして同社の将来についての期待を奥田はこう語る。「うちもやっぱり世代交代です。若い人が中心になってどんどん動かしています。若い人に入ってもらって、そういう人たちが集団になったらすごいです。一人ひとりが優秀ですから」。

幅広く国際展開をも目指す奥田だが、発祥の地である関西経済の地盤沈下を嘆いている。「この数年東京のマーケットの伸びはすごい勢いです。関西のマーケットは横ばい程度で厳しいですね」

ITが創るビジネスチャンス

IT産業の将来について、奥田はビジネスの停滞を打破していく―つのはずみと見ている。「ITによって、生活や習慣は変わっていく。そこにビジネスチャンスがいくらでも生まれます。すべての産業にその恩恵を受けるチャンスがあると思います。これからはIT によってすごいチャンスが生まれる。日本の将来にとっても、決して悪くないと思います」。

さらに「我々が株式を上場するまでには、やはり二十年くらい苦労しました。今はそれを三年とか五年でやるわけですからね。だけどその速さが大事です。年寄りより若い人にとっては非常にいいチャンスです。そういうありがたい世の中の状況だけに、やっぱり経営者は先を見通して、ちゃんとしたコスト意識をもたないといけません。いずれにしても若い人にとっては、非常にいい時代が開けていくと思います」。

また若者は英語を使って、グローバルなビジネスをすべきだという。「私は海外で仕事をしていながら、あまり英語は得意じゃないんです。私は大阪を出て東京をベースに、東京と大阪を毎週往復して全国も回りました。これからの若い人は、国際化にアレルギーをもたないことです。英語がある意味で公用語なら、国内を走り回るより、英語でビジネスをして海外を走り回るようなバイタリティをもつことが非常に大切です。要するに日本に閉じこもるのではなくて、国際感覚をもって、グローバルな仕事をしなさいということです」。

そして同社の国際展開の現状を奥田は、「種まき」の時期と捉えている。「いま我々は種まきを一生懸命しているところです。それが五年先、十年先に花が咲くというふうに考えております」。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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