保険販売支援システム開発の最先端
前田 力(まえだ ちから)
住生コンピューターサービス株)
保険ビジネス開発部保険第一開発グル̶プ長
プロフィール
1963年生まれ。1985年、龍谷大学法学部卒業。同年、住生コンピューターサービス (株)入社。住友生命保険相互会社の初めての販売支援システムを担当。作成計画でのクライアント・サーバー・システム、業界初の電話を介しての設計書作成システム (テレサ)、営業職員が活用するPDA 「べんけい」の企画・開発に携わる。また、2001年には、「べんけい」 をバージョンアップしたWindows2000 搭載のノートPC携帯端末 「With」 を企画・開発する。
現在、保険第一開発グループ長として、保険販売への支援システム(販売情報システム) の開発に携わっている。
「毎日が修学旅行気分だった」大学生活
前田力に開発プロジェクトで苦労したところを尋ねると、「何に苦労しただろう?何でしょう?何だろう?」と自問自答しながら真剣に悩んだのが印象的であった。「すべてが苦労であったようであり、また、すべてが楽しかった」というのが本当のところらしい。
1963年、広島県に生まれた前田には、七歳年下の妹がいる。両親が共働きだった前田は、高校生の頃、当時小学生だった幼い妹に夕食をつくつてもらった。それ以来、妹には頭が上がらない。
1981年、前田は京都の龍谷大学法学部に入学した。初めて一人暮しを始めた前田は初日こそ不安だったが、「その次の日からは毎日が修学旅行気分でした。あっという間の四年間でしたね」と当時を振り返る。そんなわけで前田は、いわゆる「優等生」として大学生活を送ったわけではない。「単位をかなり残していて、卒業できるかどうか分からない状態でした」
ただ就職活動はかなりユニークであった。
「とりあえず自分の足で歩いて、どんな仕事があるか探しました。大学のOBも訪問しました。そのOB の中に住生コンピューターサービスの社員がいたんです」
ただし、それまで「毎日が修学旅行気分だった」前田は、大学在学中、コンピュータに触れたことは一切なかった。「キーボードにも触れたことはありませんでした」と語る。コンピュータとの唯一の接点は、後に妻になる「ガールフレンドの兄が、ある会社のソフトウエア技術者だったので、ソースコードを見せられて、凄いものだなと思った」ことだけであった。
実は前田は現在の会社の他にアパレル業界にも興味があり、大手アパレルメーカーの内定ももらっていた。しかし、父親が「住友のブランドがついていた方が良い」と意見をいったことと、結婚相手が地方公務員となり、当時大阪にしか事業所がなかった住生コンピューターサービスには転勤がないことから、同社への入社を決めた。このような理由から入社した前田であるが、その後、総額250億円の開発プロジェクトの重要な一翼を担うようになるとは、誰も、というより本人が一番想像していなかっただろう。
「内定後、会社から研修用のマニュアルなどをもらって勉強することになりましたが、それが難しくてショックを受けました」
ただし前田は、学生時代から数学、物理が好きで、数字をみることは決して嫌いではなかった。
ホストコンピュータの機能を端末に組み込む
生命保険の営業チャネルには、女性を中心にした営業職のチャネルと代理店のチャネルの二つがある。前田は一貰して生命保険の営業をサポートするシステム開発の最前線にいる。住友生命では初めての販売支援システム、通称「支部パソコン」といわれるものを手がけた。その後、メインフレームをクライアント・サーバー・システムに置き換える「サクセス計画」に参加する。さらに生命保険業界では最初の、電話を利用した「テレサ」と呼ばれる保険設計書作成システムの開発にも携わった。
またさらに、営業職が携帯するPDAシステム、「べんけい」をシャープの「ザウルス」をベースに開発した。ただしベースがPDAということもあって、「べんけい」の機能は限られたものであった。その後継機が「With スミセイ」(以下、With) である。
これはNEC のノートPCをベースにして、営業職研修、住友生命のCM表示機能、顧客管理、保険設計、営業職のスケジュール管理、リセール機能などを盛り込んだものである。このうちのリセール機能とは、現在の保険を解約すると、どのようなデメリットがあるかを明らかにするものである。Withは一言でいえば、今まで各支部で行っていた保険設計書作成を中心とする機能を、最前線の五万人の営業職が常に携帯するノートPCに組み込んでしまおうという試みであった。五万人もの営業職の女性たちが、Withを常に携帯して、お客さんと対話しながらその場で保険設計書を作成するということは、これまでの各支部に戻って、そこで個別の保険設計書を作成していた業務の形態を大きく変えることになる。
1999年4月に住友生命内で意向確認が行われ、同年12月に住友生命側から開発プロジェクト開始のOKが出た。Withの開発プロジェクトの予算は、ハードウエアも含め総額250億円に達するが、前田はそのうちのアプリケーション開発部分を担当することになった。
デザインとパフォーマンスの融合
前田はWithに搭載するアプリケーション開発のまとめ役として、この開発プロジェクトに関わる。ピーク時には二百人近くのソフトウエア技術者がWith のアプリケーション開発に携わった。実は、当初with のアプリケーション開発は実際より容易に見えたという。
「NECにはホロンという優れたケースツールがありました。それをベースに利用できると思ったのです。すでにあるものを利用するという目算でしたが、結局利用できるものはほとんどありませんでした。実際にはほとんどつくり直しました」
Windows2000をOSとして3256本のファイルで構成されるWithが完成したのは2001年2月であった。実際には約10力月で、これらのアプリケーションソフトを開発した。
10カ月しか開発期間がとれなかったのは、ちょうどそのころ生命保険のもう―つの販売チャネルである代理店のための「代理店WEB」の開発も同時並行的に行われていたためであった。
このためにWithのアプリケーション開発にはソフトウエア技術者を十分に投入できなかったのである。
前田のWithアプリケーション開発のコンセプトは、ただ―っ「綺麗で、易しい」だった。
「今までは支部事務所のデスクトップパソコンで保険設計書をつくっていました。ですからパソコンの画面自体はお客様の目を気にしなくて良かったのです。しかしWithではお客様の目の前で保険設計書をつくるわけですから、見た目が綺麗で、分かりやすい画面にしなければならないと考えました。また営業職の女性たちの中には、キーボードが苦手という人もいます。そのためキーボードだけでなく、タッチペンで入力できるようにもしました。さらにマウスパッドは邪魔なのでなくし、画面は反転してお客様が見やすいようにしました。その他、住友生命のロゴの入れ方など色々工夫しました。そのために上司と相談してデザイナーに画面のデザインなどを依頼しようということになりました。協力会社にお願いして、最盛期には六人のデザイナーに協力してもらいました」
その結果、予想していた以上に綺麗にでき上がり、営業職だけでなく、お客様にも好評な端末に仕上がった。ただし、そのための苦労もあった。
「SEは正しく、より早く、結果を出すことを優先して考えます。ところがデザイナーは動作が遅くても、綺麗な画面をつくろうとします。この発想はSEにはありません。しかし、デザイナーがいなかったらWithはできなかったと思います。デザイナーがSEの抽象的な指示を具体的なデザインにまとめ上げてくれたので大いに助かりました」
それでもいかにパフォーマンスの良いプログラムを書くかで、このプロジェクトのプログラマーたちは苦労した。保険設計では複数のアプリケーションソフトが動くために、ただでさえ速度が遅くなる。それに加えて画面デザインの綺麗さも考慮に入れなければならず、ますます速度が遅くなってしまう。
「営業は一分、一秒が大切です。いかにパフォーマンスを上げるかで苦労しました。新宿事業所で開発をしていたのですが、パフォーマンスの良いものを最大限努力してつくってくれたと思います」
またパソコンで表示される画面とプリントアウトされたものとを同じようにするのにも苦労した。「生命保険の契約は、最終的には保険契約書にお客様から印鑑を押してもらわなければなりません。そのためWithでお客様と相談しながら、保険設計をして、完了すると予約ボタンを押します。これを支部のLANにつないでプリントアウトするわけです。しかし画面とプリントアウトされたものとが微妙に違います。この違いを最小限にするのにも苦労しました」と前田は語っている。
試作機は2000年12月にでき上がり、ユーザーである営業職の女性たちに試用してもらった。開発担当者であるなら、当然ここでユーザーから多くの不満を出してもらって、アプリケーションソフト開発に反映、利用しようと期待する。
しかし「試作機の段階では、あまりに新しいものなので、クレームはほとんど出ませんでした。唯一の要望は本体の色は薄いピンクにしてくれというものでした」
確かにあまりにも革新的な製品は、ユーザーにとって従来の製品とは比較ができず、不満も出にくいものなのかもしれない。
Withのパフォーマンスの問題は現在でも課題であるという。「実は開発当初に比べて一分
弱起動時間は短くなっているのです。しかし速くなったと喜んでもらえるのは一週間程度です。一週間後にはもっと速くといわれます。それでも、一度、綺麗な画面にしたら後には戻れません。少しでも軽くして、日々進歩あるのみです」と前田は述べる。
阪神大震災と9月11日の同時多発テロ
前田は大きな危機を二度も経験している。最初は1995年1阪神大震災である。兵庫県の尼崎に住んでいた前田もマンションが半壊し、被災者となった。
「被災した当日、上司に連絡を入れると、住友生命の全国ネットワークは稼働しているので、今日は休んでいいといわれました。ただ自分も被災者でしたが、被災したお客様のリストをつくらなければなりません。ですから被災した直後から夜の十時くらいまで連日働いていました。
神戸のサーバーがダウンしていたので、データなどの準備をして、カスタマーエンジニアに、とにかくサーバーを立ち上げてもらいました。その後、大阪の淀屋橋に神戸支店を仮設営しました。この時、コンピュータシステムを介さずに情報を取るのがいかに難しいか改めて分かりました」
被災後、前田は親戚の家や会社が用意したホテルに住むなどして、一月半ほどで自宅であるマンションに戻ることができた。
また、前田は2001年9月11日のアメリカにおける同時多発テロの影響をハワイで経験した。「オプショナルツアーに出かけようとしたら、『テロ、テロ』と叫ぶ声が聞こえ、最初何が起こったか分かりませんでした。結局、飛行機が飛ばなくて、ハワイに十泊もすることになってしまいました。帰国できずにハワイに残された最後のメンバーになってしまったのです。ホテルからはだんだんお客はいなくなっていくし、いつでも帰国できる準備をして待機していました。仕事がどうなっているか、国際電話を入れるのですが、いつ帰れるのかが分からなくて、精神的には辛かったですね」
このような危機を二度も経験した前田は、リスク管理の重要性を十分に認識したという。ちなみにWithが開発されたのは9月11日の同時多発テロの前だが、セキュリティーには十分な配慰が払われている。たとえばWithを使用するためにはUSB対応のハードウエアキーが必要であり、一定期間LANに接続しないとソフトウエアにロックがかかるような仕組みが組み込まれている。それ以外にも顧客情報のセキュリティーに関しては十分な対策がなされている。
さらなるステップアップヘ向けて
前田は「普通の社会人の延長がシステム・エンジニアです。システム・エンジニアも―つの仕事にすぎません」という。
「”コンピュータ・オタク”は確かにある分野では素晴らしい技術力を持っています。即戦力としては魅力があります。しかし、オタクであるだけでは、ある一定分野で成長が止まってしまうと思います。”コンピュータ・オタク“がシステム・エンジニアとして将来があるかどうかは大変疑問です。システム・エンジニアとして必要なことは、何にでも好奇心を持つことです。好奇心を日頃から組み込んでおく必要があります。チャレンジ精神があって、諦めないことも必要です。また、ある意味では、ひねくれている方が良い場合もあります。たとえ結果は同じでも、色々な方法があるということを考えられるかどうかが重要です」
前田によれば、Withはもう後継機を視野に置かねばならない時期にきているという
「実際の開発に入る二年くらい前から、後継機のことを考えておかなくてはなりません。今後の二年間が準備の期間です。他の生命保険会社が、いったいどのようなマシンを出すのか、興味があります。実際の作業に入ったら『できるだろう』ではなくて『できる』でなくてはなりません。恐らく今後は、機能向上よりも、使い勝手、ユーザーインターフェースの改良の方が重要になると思います」
「転勤がないと思って」入社した前田は、現在、東京で単身赴任生活をしている。二週間に一度は帰るという妻との約束も、仕事に追われて月に一度程度になってしまう。休日の土日はやはり寂しいが、月曜日から金曜日までは仕事に集中できるようになった。ただしこれは妻には内緒にしてほしいと、そっと最後にいった。
(takashi umezawa)
注 所属、役職等は取材時のものである。