岸田 孝一(きしだ こういち)

◆プロフィール◆

昭和11年(1936)東京都生まれ。東京大学理学部物理学科天文学専攻中退。沖ビジネスマシン(株)を経て、昭和42年(1967)(株)ソフトウェア・リサーチ·アソシエイツ(現(株)SRA)創業。(株)SRA最高顧問。(株)SRA先端技術研究所長、ソフトウェア技術者協会事務局長、日本UNIXユーザー会顧問、ソフトウェア・メインテナンス研究会代表幹事、日本SPIコンソーシアム理事長を歴任。

 

 

 

 

岸田孝一はSRA の創業者の一人であり、現在、最高顧問そして関連会社であるSRA先端技術研究所の所長となっている。

SRA(当時はソフトウェア・リサーチ・アソシェイツ)は、ソフトウエア産業の草創期である昭和42年(1967)に設立された。コンビュータメーカー系、ユーザー系のいずれでもない独立系のソフトウエア企業である。岸田の活動は単にSRA 一社にとどまるものではない。この時期の一部の創業者にみられるように、ソフトウエアビジネスのビジネスとしての確立に多くの力をさいている。SRA社長の丸森が、もっぱら経営の側面からソフトウエア産業の産業としての確立に尽力したのに対して、岸田はソフトウエア工学の側面からそれを行った。

丸森隆吾との出会い

岸田は中学、高校時代から理系のクラブで活動する一方、小説、美術についても 興味を持ち、活動していた。 結局、 大学は東京大学理学部物理学科天文学専攻に入学するが、 本人の弁によれば「 遊びのつもりで入ったので、 学部の勉強についていけなくなり 」中退してしまったと いう。 この学生時代に、 その頃導入が始まったコンピュータセミナーに英語力を活かして手伝うことになった。西新宿にある映画館のオーナーがこのコンピュータセミナーを主催していたが、ここで岸田はコンピュータのプログラミングの入門書を翻訳する。 それと同時にセミナーの講師からプログラミングを習った。 そし て、 ここで後に共にSRAを創業することになる丸森にも出会う。

その後昭和36年 (1961 )に沖ビジネスマシンに入社、ここには後に丸森も入社した。当時は「 デバッグするのは夜中しかできないので、 夕方から麻雀屋で時間をつぶし て、 夜中に仕事をした。 そのため残業時間が月二百時間になることもあった 」と いう。 当時はボーナスをもらうと日本橋の丸善に出かけて、 コンピュータ関係の洋書を大量に購入した。 しかし、 沖電気がユニバックと提携し て、 岸田たちの仕事はなくなってしまう。 そこで岸田たちは昭和42年(1967)別の会社に移籍する。しかし、この会社も 岸田たちの希望に沿うも のではなかった。結局、同じ年にソフトウェア・リサーチ・アソシェイツ( 現S R A ) を仲間七人と設立する。

抽象画からの発想

しかし、 岸田はただのソフトウエア企業の経営者にとどまらなかった。 と いうよりソフトウエア開発がビジネスとして認知されていなかった当時、 ソフトウエア企業はコンピュ ータメーカーでもコンピュータユーザーでもない独自の立場にあることを明確化する必要があった。 そのために岸田が注目したのがソフトウエアプログラムの構造である。 岸田はこれを「 構造論的プログラミング 」と呼び、 それを具体化したのが「 標準フローチャート 」である。 岸田は絵画、特に抽象画に興味を持ち、自らも描いているが、それが「構造論的プログラミング」の発想に紡びついたという。岸田自身はそのことを次のように述べている。「私にとっての関心は、もっぱら芸術の世界、特に抽象絵画の理論と実践とにあった。その頃、小さな芸術サークルの友人たちといっしょに勉強していたスイス生まれの画家パウル・クレエの著書に次のような言葉があった。『グラフィックアートの目的は、目に見えるものを再現することではなく、目に見えないものを見えるようにすることである』。プログラマとしての生活をはじめたばかりの私にとって、このクレエの言葉は、そのまま重要な技術上の指導原理として適用できるものであった」。

つまり「一見ただの無意味な暗号にしか見えない、しかし、マシンに読み込んで稼働させると、人間にとって何らかの意味を持つ計算を実行する力を秘めているプログラムの中に隠された構造を見いだすこと、それがプログラマと呼ばれる仕事の本質であるらしいということを私は直感的に理解したのである」。ここから「構造論的プログラミング」が誕生するのである。

さらに岸田は「ハードウエアメーカーにおけるソフトウエア開発の基本的な目標は、自らが提供するコンピュータシステムをいかにして魅力ある商品たらしめるかということだろう。一方、エンドユーザーにとって、プログラムはハードウエアと同じく問題解決のための―つの道具にすぎず、それらを用いて行われる計算の結果としてのアウトプットの内容が、彼らにとっての最大関心事である」とコンピュータメーカーと、エンドユーザーのソフトウエアに対する立場を位置づける。

そして「どんなコンピュータを用いて、どんな処理を行うかは、本来われわれプロフェッショナルプログラマの直接的な関心からは、ややはずれたところに位置する」とする。そして「ソフトウエアハウスに働く技術者の立場は、ソフトウエアエンジニアリングの実践に関しては、もっともふさわしい位置にあることが分かる。任意の開発課題が与えられたとき、われわれはまず、そのシステムにとっての最適の論理構造はいかにあるべきかの分析から出発する。しかし、ソフトウエアスペシャリストとしてのわれわれの問題意識は、特定のシステムを完成させるだけでは決して満足することができず、その論理構造や設計、具体化のアプローチが、与えられた特定の処理内容から離れて、他のどのようなシステムに応用できるかを考える方向に進んでいく。それこそが、ソフトウエアの世界におけるエンジニアリングという言葉の真の意味であり、ソフトウエアハウスに課せられた社会的使命でもある」と述べる。

つまり、コンピュータによるデータ処理の結果にのみ興味を持つコンピュータユーザーやコンピュータを売るためのソフトウエアに関心を持つコンピュータメーカーとも異なるソフトウエア産業、ソフトウエア企業独自の立脚基盤をソフトウエア、プログラムの「構造」に求めたのである。この意味で「構造論的アプローチ」や「標準フローチャート」はソフトウエア産業が自立するための一種の「マニフェスト」ともいえる。

このようなソフトウエア開発に対する考え方は1960年代末に世界的規模で一斉に花開く。昭和44年(1969)にローマで行われた国際会議でダイクストラなどによって「構造化プログラミング」が提案された。岸田はその頃を振り返って「われわれの構造論的プログラミング方法論とその具体化としての標準フローチャートは、こうした世界のソフトウエアエンジニアリング研究開発の最前線と肩を並べていたと言えるだろう」と述べている。

VAX11が欲しい

昭和55年(1980)にSRAを大きく変える出来事が起きた。昭和51年(1976)十月、サンフランシスコで開かれたソフトウエア工学国際会議に出席した岸田は、オペレーティングシステムであるUNIXをプラットホームにして各種のソフトウエア開発のためのツールが開発されているのを知り、衝撃を受ける。そのためのハードウエア 、VAX11(DEC社)をすぐにでも導入したかったが、当時SRA には財政事情が許さなかった。結局、昭和55年(1980)になって、やっと念願VAX11が導入された。この昭和55年(1980)を転換点として、SRAのソフトウエア開発の環境は大きく変化することになる。「プログラマ自身もまた、紙と鉛筆それに消しゴムを捨てて、キーボード、ディスプレイ端末から直接コンピュータと対話する形でソフトウエアの開発を進めていけるようにすることが、この新しい『環境革命』の目標であり、それは、いわばプログラマのためのオフィスオートメーションと言える。」と岸田は宣言している。

現在からは想像するのも難しいことではあるが、ソフトウエア企業で独自に開発用のコンピュータを設置している企業はほとんどなかったといってよい。たとえ自社にコンピュータが設置してあっても端末の数は限られていたし、ましてやソフトウエア開発環境などほとんど整備されていなかった。その中SRA のこのような取り組みは非常に革新的であり、一年ほどは見学者が絶えなかった。これを率いたのが岸田であった。ちなみにMS-DOSを採用した十六ビットのIBMPCが発売されたのが、翌年の昭和56年(1981)である。

岸田はSRA におけるUNIX やその上に構築された「ソフトウエア開発環境」について、次のように評価している。つまり「ソフトウエア開発環境の概念を日本に導入し、普及しようというというわれわれの狙いはSRA の技術的優位を世の中に十分PRすることができたということも含めて、まさに成功したのである」。

ナショナルプロジェクトを指揮

岸田は、昭和56年(1981)からナショナルプロジェクトであるSMEF(Software Maintenance Engineering Facility)プロジェクトのテクニカル・ディレクタとして、このプロジェクトを指揮した。

これは汎川機のアプリケーションソフトウエアを対象とするメンテナンス支援環境をUNIX上に楷築するというプロジェクトであり、様々な出資会社から出向したソフトウエア技術者をまとめて、これを成功させた。岸田はこのプロジェクトの本来の目的を告白している。つまり「SMEFプロジェクトの場合のメンテナンス支援という旗印は、単に予算を獲得するための方便にすぎず、プロジェクト立案者としての私の狙いは、これをUNIXプログラミング環境のOJTセンターとして位置づけ、各種支援ツールの開発および統合化の実験を通じて、日本のソフトウエア業界に、先進的なソフトウエア開発環境の概念を根づかせようということで あった。その意味でこのプロジェクトは、一種のTechnology Amusement Park(新技術遊園地) という性格を持っていたと言えよう。この私の狙いはほぼ予定通りの成功をおさめ、五年後には、来るべき個人用ワークステーション+ネットワーク時代を想定して、分散型個人環境の実験を中心に据えた新しいプロジェクトの構想を提案することになった」。つまり次期プロジェクトであるΣプロジェクトでは、岸田たちは、当時実験的に稼働していたJUNetを発展させて日本全国を結ぶ公共のコンピュータネットワークを張り、それを十分に活用して、UNIX ベースにして分散環境の分散開発を試行することを意図していた。JUNetは、現在の日本におけるインターネットの源流であり、日本の大学間を繋いだ研究用ネットワークである。

しかし、このような岸田の提案は受け入れられなかった。つまりΣプロジェクトは、いつの間にかコンピュータメーカー主導の大型汎用コンピュータと端末からなる平凡なシステムになってしまい、岸田たちの意図した分散環境の分散開発は受け入れられなかったのである。そのために岸田およびSRAはΣプロジェクトには参加せず、以降その手強い批判者となったのである。

このため岸田はJUNetの実験に協力し、資金的サポートも行った。そしてさらに、日本で最初の商用プロバイダであるIIJ の設立にあたっては数少ない出資企業になった。

貴重な貧者の一灯

またOS(オペレーティングシステム)やエディタなどの多くの人が使うソフトウエアは、人類共通の文化資産として、オープンソースで無料公開されるべきだというオープンソース運動 を行ってしるFSF(Free Software Foundation)に、一万ドルの寄付を行い、協力技術者も派遣 している。岸田は「貧者の一灯」だと思って一万ドルを寄付したのだが、後で初めての高額寄付であったことがFSF の会報で報じられた。ソフトウエアのソースコードとは、人間が理解できる特定のコンピュータ言語で書かれたプログラムであり、一般には公開されない。われわれが通常ソフトウエアと一言っているのはソースコードをコンピュータが理解できる機械語に翻訳したプログラムで正確にはオブジェクトコードと呼ぶ。こういった様々な岸田の働きでSRAには、昭和五十五年(1980)以来UNIX に関するノウハウが着々と蓄積されていったのである。

そしてUNIXをベースとしたオープンソースの流れが拡大するなかで、岸田は新しいビジネスモデルを考えている。つまり「日本の一般企業のなかでもオープンソースのフリーソフトウエアを活用して実際の業務システムを構築しようという機運が盛り上がりつつあるようだ。その際、ユーザーにとっての唯一の心配は、技術支援、運用保守支援をだれがやってくれるのか、ということである。そこにSRAが、これまで培ってきたオープンソースに関する経験やノウハウを持って登場するタイミングが、まさにびったり適合していると考えられるのである」。

ソフトウェア技術者協会の動き

岸田はソフトウエア技術者の技術交流にも大きな力を裂いている。当時(社)ソフトウェア産業振興協会の技術委員会があり、岸田などが中心となって活動していたが、業界のソフトウエア技術者を中心としながらも、業界の枠にとらわれずに、コンピュータメーカーやユーザーのソフトウエア技術者、大学の研究者を巻き込んだ活動を行っていた。このような活動が業界のソフトウエア技術者を中心にしているとはいえ、その枠を越えているため独自の組織を立ち上げることになった。

しかし、当時のソフトウエア企業の経営者サイドからは、会社の壁を越えて技術者が交流することがカンにさわったらしい。つまり「新しい形の労働組合ではないのか」、「技術者の転職を助長するのではないのか」などの誤解があり、その誤解を解いて、昭和60年(1985)に「ソフトウェア技術者協会(SEA)」が任意団体として設立された。現在まで着実に技術交流の輪を広げている。このための事務局や要員はSRAが肩代わりをしている。

岸田は、会社は個人が面白いことをやるために存在しているのであって、会社はあくまで道具だと言う。岸田自身自分は「プログラマ」だが、「プログラミング」に人生をかけているわけではない「むしろ私のライフワークは抽象絵画だ」と言う。

最近の若者をみているとみんな真面目すぎる。ものごとを少しハズしてみることが大切だ。岸田自身やじ馬的にやってきたから続けられたと考えている。そして、日本のことを気にせず世界をみることが重要であるとも言う。

また、岸田は業界全体あるいは行政はIT政策に力を入れているようだが、現時点ではしつかりとした将来ビジョンが認められないと考えている。そして今後のソフトウエア産業についてはオープンソースが―つの、重要な流れになるとみている。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

TOP