狩野 健司(かのうけんじ)

◆プロフィール◆

昭和七年(1932)群馬県生まれ。早稲田大学理工学部数学科卒業。昭和三十一年(1956)協栄生命保険(株)(現ジブラルタ生命保険)入社。昭和三十九年(1964)(株)協栄計算センターに出向、昭和四十九年(1974)(株)協栄計算センター代表取締役社長就任。昭和五十九年(1984)アイネスに社名変更。平成八年(1996)(株)アイネス取締役会長、平成十年(1998)同社代表取締役会長兼社長。平成十三年(2001)同社相談役を歴任。

 

 

 

 

狩野健司は創業者でもなければ、オーナーでもない。それどころか創業時は一介の課長であったにすぎない。しかし、アイネスの歴史、そしてその現在を語ることは、結局狩野を語ることになるほど強烈な影響を同社に与えている。それは「カリスマ性」とさえいえるものをすら備えていると言えるかもしれない。

アイネスのルーツは協栄生命保険(現ジブラルタ生命保険)のコンピュータ部門にある。このコンピュータ部門が昭和三十九年(1964)に分社してできたのが、アイネスの前身となる協栄計算センターである。

生保会社に就職

狩野は、早稲田大学理工学部数学科を卒業して、昭和三十一年(1956)に協栄生命に入社する。当時同学科では教職につくもの、大学院に進学するものがほとんどで、同期生二十人中、民間会社への就職希望者は狩野を入れてわずか三人であった。そのうちの一人が協栄生命の入社試験を受けたところ、なぜか先方は気に入らなかったらしい。もともと協栄生命の社長と主任教授とは大学の同期生であった。そこで「もっとでかいのを寄こせ」ということで、狩野の入社が決まった。

しかし、狩野の人生が順風満帆であったわけではない。入社したものの狩野は肝臓を患い入院、翌年三月やっと復帰する。「四月になって僕の昇給がなかったんで、文句を言いにいったら、お前、本当は首だよと言われました」と狩野は笑い話にするが、ここで一種の「挫折」を味わったのかもしれない。

入社後昭和三十三年(1958)に、後のコンピュータ部門となる「機械部」に配属される。もちろん当時はPCS (パンチカードシステム)の時代である。ところが翌年協栄生命は富士通の国産コンピュータの導入を決定する。しかし、狩野は、「海のものとも山のものとも分からない機械を使うのはいやだ」といって導入を進める社長に徹底的に反対する。結局、翌日辞令が出て営業に飛ばされてしまう。ここでも狩野は「挫折」を味わっている。

昭和三十六年(1961)、協栄生命にコンピュータは導入されたが、やはりうまく動かない。そこで狩野が昭和三十七年(1962)に呼び戻されて、結局コンピュータ導入の面倒をみることになる。ところが二年後には、早くも協栄計算センターとして分社してしまうのである。狩野は「協栄生命は過大なコンピュータ投資をして負担に耐えられないということから、会社を別にして少し稼ごうというのが、この会社が出来たきっかけなんです」。

これには協栄生命側の別の事情もあった。「コンピュータ部門を子会社化する時、協栄生命の中のみんなが賛成するんです。当時、僕は機械部の課長代理でいろいろ根回しするんですが、財務部門は会社が別になれば家賃収入が入るので喜びます。人事部門は、当時、コンピュータ部門が組合の闘争拠点だったので、いつもそこで揉めていたわけで、それで別になるのは良いなというわけです。そんなことで、みんな思惑は違うんだけれど、いとも簡単に別会社になったのです」。ここまでは、ある意味でごくあたりまえのソフトウエア子会社の分社化ストーリーである。

受託から開発へ

しかし、狩野は単に生保の子会社という位置に満足しなかった。「保険会社の社風というのがなかなか私には合わなくて、早く辞めたいなと思いながらズルズルいました。そのうちに分社化というのがありましたから、これはチャンスだと思いました。ここで親離れをしようと画策して、いかに親会社の売り上げの比率を下げるかということを企んだんですね」。しかし、むやみやたらに親離れをしたのではない。そこには狩野らしい計算もあった。つまり「一応十年やってダメなら商売変えしようと、その時、いくら社員の退職金と転業資金を貯め込めばいいかも考えました。社員だけでなく、協栄生命からローテーションで来た社長をもだまくらかして親離れを画策しているわけですから、責任上、貯め込みました」

親離れは売り上げだけではなかった。当然、人材の面でも親離れをしようとした。ところが問題が起こる。「会社が出来てから、協栄生命から人は入れないということで、プロパーをどんどん採用しました。ところがプロパーの一期生が『課長はかっこいいこと言っているが、身分はまだ協栄生命じゃないか、俺たちはこの子会社の身分だ、いざとなったら協栄生命に逃げるんじゃないか』と言うんです。逆に協栄生命の社長からは会社ごと逃げるんだろうと言われるんです。どちらからも逃げるんだろうと言われて、そんなつもりはないのに」。

そんなこともあり協栄生命からの出向者のうち、狩野だけが昭和四十四年(1969)転籍する。この時、協栄生命の社長と狩野の間で「最低一割の配当を行えば、何も口出しはしないという口約束が出来ていた」と言う。そして、こんな狩野の行動を理解していたのは協栄生命の社長のみだったと言う。「僕は協栄生命ではすごく評判が悪いんです。あいつは何をやるかわからんてね。あの当時、分かってくれたのは協栄生命の社長だけでした。だから協栄生命に八年間いられたのは、あの社長だったからです」。

親離れは着々と進行し、協栄生命の売り上げに占める比重の割合はどんどん下がっていく。「向こう(協栄生命)はこちらを事務工場だと思っているから協栄生命の都合を優先して、余った時間で他のお客さまの仕事をしていると思っている。こっちは逆でお客さまが増えてくれば営業利益の良い方がプライオリティが高いわけで、協栄生命の仕事が利益に寄与しなければ後回しになります。ちょうど十年たったところで協栄生命の仕事はすべて返しました。それで協栄生命はまた独自にシステム部を作ったのです」。

初代、二代目の社長は協栄生命からの出向者であった。この間、狩野は昭和四十一年(19966)に取締役に就任し、昭和四十九年(1974)に三代目の社長に就任する。ここで初めて「陰の社長」が名実共にトップの座に就いたのである。

しかし、まだ狩野の苦労は続く。当初受託計算を主にしていた同社の業務は、一九七○年代後半から次第にソフトウエア開発にシフトしていった。受託計算の場合には月々安定的に売り上げがあるが、ソフトウエア開発の場合は一年あるいは二年の資金繰りが必要になる。取引銀行に融資を頼みに行った狩野に、取引先銀行の担当者は次のように言ったという。「はっきり言うけど、お宅は協栄生命の子会社だと言っているけどウソでしょう。協栄生命の仕事がこれっぽっちなのは、協栄生命はお宅が危ないと思っているから仕事を出さないのじゃないですか。協栄生命は、お宅を子会社として認知していないのでは」。この時は今回限りということで融資に応じてくれた。しかし、この銀行の担当者の言葉から狩野は自分で資金調達をしなければと思い、これが後の上場のきっかけになった。

トラック一台分の納品

同社が、ソフトウエア開発にシフトし始めたのはハードウエアの価格がだんだん下がって、どこでもコンピュータを入れるようになったことがある。しかし、当初はソフトウエア開発でお金を取るには、ユーザーの大きな抵抗があった。「計算センター時代は、納品に行くときトラック一台分の用紙が来て、これで何千万円というとなるほどなと思いますよね、ところがソフトだけ作ってもっていっても、何でお金がいるのとなります」。そのために昭和四十五年(1970)頃には同社では自治体向けのパッケージソフトを開発、それを利用して業務の展開をはかった。「あの頃はソフトウエア開発にお金をくれないんです。コンピュータを回すとお金をくれるんですが、ソフトウエアを作るというとそれはサービスでしょうと言うんです。そうするとソフトウエア開発にお金をかけるわけにはいかないので、パッケージ化しました」

昭和四十五年にIBMがハードウェアとソフトウエアを分離して販売するアンバンドリング政策を発表する。「その当時の最大の問題はソフトにお金を払ってくれるかなということでしたから、狙ってきたようにアンバンドリング政策が出てきて追い風になりました」。そしてユーザーが自分のところでシステム部を作って、SEやプログラマを置くようになって初めて、ソフトウエアの重要性を知り、ソフトウエア開発でお金が取れるようになった。自分のところでやったらどれだけかかるかが分かるようになったのである。

人材の採用でも苦労は続いた。一番がっかりしたのは、新規採用のために大学の就職部に出かけた折り「協栄計算センター」を「釣り堀センター」に間違われたことである。それも上場してからは改善されたという。

しかし、上場する以前は知名度もなく、必ずしも優秀な人材ばかりが採用できたわけではない。そこで生まれたのがソフトウエアのモジュール化である。「大きなプログラムを任せると腕の良いやっとそうでないものの差が出るんです。小さくするとそんなに腕の差は出ないんです。

それで小さく分割していって、それをチェーンのように繋いでいく生産方式を編み出しました。 今では当たり前のことなんですが、そのころはソフトを作っていくのにそんなことが出来るのかと言われました。その意味ではこれは大変成功したんです」。

パタッと止まった発注

昭和五十九年(1984)にアイネスに社名変更、昭和六十二年(1987)に東証二部上場、平成元年(1989)には東証一部上場を果たす。この間、順調に発展してきた同社をバブル崩壊の波が襲う。平成四年(1992)、同五年(1993)には同社は赤字決算を行う羽目になる。とくに平成五年(1993)には八十億円もの赤字を出してしまう。狩野は言う。「本当に仕事がなかったんです。発注がパタッと止まったんですよ」。そしてバブル景気の中に同社も飲み込まれていた。「一つ一つの仕事の収益なんかは把握出来てませんでした。丼勘定です。ものすごくいい加減でした。後からシステムの機能の追加が来ると、次の仕事でお金を出すから、ここは損してもやるなんてことが次から次へとあったわけです。お客さまもこっちもいい加減だったわけです」。同業者の中には二、三年のうちには景気は回復すると見るものが多い中で、狩野はこれは構造的なものと直感する。狩野はこの危機をバネに新たなチャンスに変える。そして全力を挙げてこの問題の克服に取り組んだのである。

狩野の下の企画室を社長室に改め、優秀な若手を登用して、ソフトウエア開発を中心とした業務の見直し、そして、バブルにどっぷり浸かった社員の意識改革を行う。その間には改革を進めようとする社長室員と、これまでの仕事のやり方を変えようとしない部門長の間で、深刻なせめぎあいがあったという。「バブル後で、現状でも営業利益率は二桁は出るはずだ、それにチャレンジしていこうということでやりました。この業界では誰も信じなかったんです。狩野さんは仕事がなくなって、オカシクなったと言われました」。しかし、同社は狩野の強力なリーダーシップのもと、社長室員を前面に立てて、見事それを達成する。狩野は「情報サービス産業は、昔は利益なき繁忙といっていたが、最近はいかに利益を上げるかに様変わりしている。そのためには、プロジェクト管理が重要になる。それがサービス業の基本だ。プロジェクトマネジャーの腕によって収益がはっきり出てくる」。

もちろんこの新たなチャレンジが成功した陰には、苦渋の選択を追られた場面もあった。「入社して一、二、三年くらいの社員を中心に三百人くらい解雇しました。退職金に一年分の給料を上乗せしましたが、これが一番心苦しく、今でも残っています。お客さまからコンピュータ要員が欲しいというので、辞めた社員の中で優秀なのを紹介しようとしたら、十何人目かでやっと見つかったんです。まだバブルの余韻もあって、みんなお金もあるし、一年くらいのんびりしたいと言うのです。悪いなと思いながらも少しほっとしました。しかし、首切りというのは大変ですね、ずっと残るでしようね」。

名刺の多彩な活用

バブル崩壊後のIT産業における一番大きな変化は、経営のトップがIT投資についてシステム部門に任せきりにしないようになってきたことだと、狩野は言う。そして今後のIT産業について、十年先は分からないが、当面五年間は伸びていくとみている。業界としてはIT技術の質を高めることが必要だと力説する。同社は平成十一年(1999)九月にE ソリューションン本部を設置した。これは情報サービス産業を取り巻く変化に対応するためである。狩野は今までの情報処理やソフトウエア開発のマーケットは小さくなると考えている。そのために今後は新しいビジネスモデルを作ることが重要であり、そのために設けたのがE ソリューション本部である。またインターネットを利用してアプリケーションソフトウエアを期間単位で貸し出すASP(Application Service Provider)市場も大きく拡大する可能性があるとみている。「日本の中小企業の特色はそれぞれ企業の独自性がベースになっている。そのために、システムもそれぞれ違うという面があった。しかし、最近はその点がだいぶ変わってきた。財務会計ソフトのように、ある部分はあてがいぶち、ここは独自のものでいくということが出てくる。そこを我々が一緒になってうまく築き上げていきたい」。

さらにベンチャービジネスを志す人たちには、自らの「挫折」の経験からか、月並みと断りながらも「早く『挫折』は味わった方が良いですね。そこから学ぶことが成功につながると思います」と述べる。若い人たちには人的ネットワークをたくさん作ることが重要だとアドバイスする。「今の若い社員はそれが出来ていないですね。僕は協栄生命時代には名刺を使うことが営業よりも多いと言われました。僕は人的ネットワークが出来るのが嬉しくって」と狩野は笑った。

(takashi umezawa)

注 所属、役職等は取材時のものである。

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