これはコンピュータの草創期からかかわり、 さらにI T サービス 、ソフトウエアビジネスの転換点でそれぞれ大きな役割を果たしてきた人々の物語である。 単なる昔話、 思い出ではない。 取り上げた人々は、 いずれもソフトウエアに価格がなかった時代に、ソフトウエアによって対価を得るという新しいビジネスモデルの構築に努力した人々であり 、新しいI T の展開を目指した人々でもある。歴史的な証言としての意義もさることながら、I T に限らず これからのビジネスモデルを考える上でも、これらの人々の先見性やチャレンジ精神は大いに学ばなければならない。

ソフトウエア産業の夜明け

一般には 、コンピュータの誕生は、 昭和21年( 1946 )2月のE N I A C の完成を待たなければならない 。しかし第2次世界大戦以前からカードに孔をパンチして、それを機械的に計算処理するシステムとしてパンチカードシステム(P C S ) があった。この有カメーカーが現在のI B Mであった。 日本では大正14年(1925)に森村組、 その後昭和元年(1926)には黒沢商店がIBMの代理店となる。黒沢商店がIBMの代理店となった翌昭和3年(1928)に同社に入社したのが北川宗助である。 北川は戦中、 戦後をはさんでP C Sさらにはコンピュータにかかわった数少ない歴史の証人でもある。

I B Mは昭12年(1937)に日本ワットソン統計会計機械を設立し、 これが第2次世界大戦後の昭和25年 (1950 ) 日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズに社名変更し、 昭和34年(1954 )日本I B M となった。

夢の機械・夢の時代

世界で初めての商用コンピュ ータ、U N I V A C -I が出現したのが昭和25年(1950)である。日本で最初に開発されたコンピュータは、 昭和31年( 1956 )富士写真フィルムによるF U J I C であった。 これは同社のレンズ設計用計算に用いられた。

この前年には東京証券取引所、 野村証券がU N I V A C 1 2 0 をそれぞれ導入した。とはいえU N I V A C l 2 0 は計算処理部分だけをコンピュータ化したシステムであり 、プログラムは配線で行い、まだP C S の陰を引きずっていた。 この日本最初のコンピュータビジネスヘの導入にかかわったのが野村証券の戸田保一である。 戸田は以降野村コンピュータシステム( 現野村総合研究所 )などを経て、コンピュータとかかわり合うことになる。

この昭和35(1960)頃まではコンピュータとP C S の共存時代であった。 そして、また新しく手にした飛躍的に高い計算処理能力を利用した計算センターが設立された時期でもある 。たとえば 、昭和34年 (1959)には、服部正構造計画研究所富野壽 )を設立した 。もっとも同社がI B M コンピュータ1 6 2 0 を導入するのは昭和36年 (1961)になってからである。

昭和33年 (1958)には高原友生の勤務していた伊藤忠商事が計算センターである東京電子計算サービスを設立した。 これが後にC R C ソリューションズ(後伊藤忠テクノソリューションズ株式会社(CTC))となる 。ただし 、計算センターとしてはP C S ベースではあるが北川宗助らによって昭和30年(1955)に設立された日本ビジネスが一番早いと思われる。 その後、 昭和34年(1959)日本ビジネスからスピンアウトした北川宗助が日本ビジネスコンサルタント (N B C ・現日立情報システムズ )を設立 、計算業務 、ソフトウエア技術者の派遣などを始めている 。この会社には後に日本最初のソフトウエア企業、コンピュータアプリケーションズ( 現CAC、シーエーシー )を設立する大久保茂 、スタット・サプライ( 後ソラン )を設立する北川淳治も入社している 。

これ以外にデータ入力 、計算センター系の企業が昭和40年 (1965)までに続々と設立された 。昭和37年 (1962 )には日本電子計算村野兼雄 ) 昭和38年 (1963)東京データセンター( 後T D C ソフトウェアエンジニアリング野崎克己 )、昭和39年(1964)には協栄計算センター( 後アイネス狩野健司 ) 富山計算センター( 後インテック(ITS)金岡幸二、中尾哲雄 )昭和40年には日本電子開発( 後キーウェアソリューションズ松尾三郎、 岡田昌之 ) 群馬電子計算センター( 後GCC松平緑 )など中核的な計算センター群が設立されている。 比較的対価の得やすいデータ入力系、 受託計算系の企業は、 ソフトウエア専業の企業に比べると早い時期に設立された。

これに対して対価の取りにくいソフトウエア開発を専業とする企業の設立は遅い。コンピュータアプリケーションズ( 大久保茂 )が昭和41年 (1966)8月に、 続いて10月には日本ソフトウェアが設立された。 このうち日本最初のソフトウエア企業であるコンピュータアプリケションズはコンピュータメーカーとは資本関係のない独立系の民間企業である。 一方、後に述べるように日本ソフトウェアは通産省( 後経済産業省 )の指導によって日立、 日本電気、 富士通のコンピュータメーカーが出資したソフトウエア企業である。

この昭和41年(1966)には、 後に野村総合研究所になる野村電子計算センターが設立され、戸田保一もここに移る。 さらにトランス・コスモス奥田耕己 )となる丸栄計算センターもこの年に設立されている。

ハードウエアに目を向けると昭和35年(1960)にはI B M と国産コンピュータメーカーとのパテント契約が実現した。しかし、I B M からの技術導入は拒否された。その結果、国産コンピュータメーカーである日立、 三菱 、日本電気、 安川電機、 沖電気、東芝はIBM以外のコンピユータメーカーからの技術導入契約を昭和36年(1961)から昭和39年(1964)にかけて結んだ。ただ富士通は唯一国外からの技術導入を行わなかつた。しかし、これには後で述べる隠れたエピソードがあった。

昭和39年(1964)、IBMはICを使いソフトウエアの互換性と汎用性をもつた画期的なコンピュータシステム360を発表して、立ち上がりつつあつた日本のコンピユータメーカーに衝撃を与えた。通産省はこれに対抗するために「超高性能大型電子計算機」の開発を計画、昭和41年(1966)度から5年間に101億円を投入した。これを通産省の電子工業課長(当時)として押し進めたのが戸谷深造である。

この時点で、戸谷はシステム360に対抗する国産コンピユータのハードウエアの研究開発を進める一方で、ソフトウエアの重要性も充分に認識していた。そのため通産省の資金はソフトウエアの研究開発にも使えるようになった。そこで生まれたのが前述の日本ソフトウエアである。日本ソフトウエアは、この研究プロジエクトでOS(オペレーテイングシステム)を担当した。この意味で日本ソフトウエアは国策会社であつた。つまり3社の異なるハードウエアの上に共通のソフトウエアを走らせようとするものであつた。結局、この目的は実現せず、昭和47年(1972)に解散してしまう。しかし、通産省がハードウエアのみならずソフトウエアにも 研究資金を投入したことは、 ソフトウエアやソフトウエア産業の重要性を広く世に知らせる結果となった。

また、 電電公社( 現N T T ) もオンライン情報処理用の独自コンピュータD I P S の開発を昭和37年 (1

962)から開始する。 このD I P S の開発は、 平成4年 (1992)まで続けられ多くの人材が育った。

この昭和41年(1966)から昭和45年(1 970 )まではソフトウエア企業の草創期である。翌年の昭和42年 (1 967)にはソフトウェア・リサーチ・アソシェイツ( 後S R A ・丸森隆吾、岸田孝一 )昭和43年(1968)にはコンピューターサービス( 後CSK(SCSK)•大川功)カテナビジネスサービス( 後カテナ・小宮善継)昭和44年 (1969)には日本システムデイベロップメント大東清成・鳥川美光 )が設立されている。 さらに昭和45年(1970)には富士ソフトウェア研究所( 後富士ソフトA B C • 野澤宏)、日立ソフトウェアエンジニアリング佐藤孜 )が設立される。

しかし、 今でこそソフトウエアの重要性は周知の事実であるが、当時はソフトウエアはハードウエアのおまけと考えられていた。 ソフトウエアで対価を得るのに苦労した話は数え切れない。 ソフトウエアでは金を支払ってもらえないので、 それを使用してプリントしたアウトプットをトラック一杯分届けたら、 初めて、 お金を支払ってもらえたというウソのような話が、この業界内には語り伝えられている。 そんな中、昭和44年(1969)、IBMはソフトウエアとハードウエアを分離して販売するアンバンドリング政策を発表し、翌昭和45年(1970)から実施した。ソフトウエアとハードウエアを分離して販売するということは、ここで初めてソフトウエアそのものに値段が付いたという意味で、このアンバンドリング政策の意義は大きい。このIBMの政策は、やっと歩き始めた日本のソフトウエア企業にとってまさに追い風になったといえる。

一大飛躍のとき

昭和45年(1970)日本情報センター協会とソフトウェア産業振興協会の二つの業界団体が設立された。情報処理振興事業協会、情報処理研修センター(現中央情報教育研究所)も発足する。さらに通産省では、それまで昭和32年(1957)に設置された電子工業課がこの業界を担当していたが、この年組織が改編され、新たに電子政策課、情報処理振興課を設置、これらがこの業界を担当することになった。昭和45年(1970)は、その後のITビジネスが展開される枠組みが作られた年といえる。特にソフトウェア産業振興協会の設立には、当時の通産省電子政策課長兼情報処理振興課長の平松守彦(後大分県知事)が陰の立て役者として大活躍した。平松はソフトウエア開発の債務保証等を行う情報処理振興事業協会、ソフトウエア教育を行う情報処理研修センターなどの設立を進め、以降のITビジネスの行政側の対応を整備した。

まず昭和45年(1970)1月に日本ソフトウェ ア、 コンピュータアプリケーションズ、 日本コンコピューター・システム、 構造計画研究所( 服部正 )S R A ( 丸森隆吾 )など8社が中心となって、 任意団体ソフトウェア産業振興協議会が作られたが、 半年後の6月、 それが発展解消し 29社によって社団法人ソフトウェア産業振興協会が発足した。 服部は亡くなるまでの11年間、 同協会第二代会長とし て、ソフトウエア産業の独立と発展に努力した。 服部はソフトウエ ア企業をゼネコンと建築設計事務所にたとえていたという。 つまり建設業では建物を造るのがゼネコンで、 設計をするのが建築設計事務所であり、 この設計にあたるのがソフトウエアである。 建築設計事務所が成り立つのに、 ソフトウエア企業が成り立たないはずはないというのが 、服部の意見であった。 いかにも建築家服部らしいエピソードである。

丸森も同協会、 後には情報サービス産業協会の副会長を務め、 野崎克己 (T D C ソフトウェアエンジニアリング )も全国情報サービス産業厚生年金基金の理事長を長く務め、 業界の基盤確立に尽力した。

他方、 計算センターを中心とする社団法人日本情報センター協会も、 昭和45年(1970)7月に発足した。 同協会が発足する以前から、 いくつかの同業者の集まりはあった。 昭和35年(1960)頃から松尾三郎( 日本電子開発・後キーウェアソリューションズ )等による10人前後の同業者の集まりがあった。さらに昭和41年(1966)頃に始まった金岡幸二( 富山計算センター・後インテック(ITS) )、松平緑( 群馬電子計算センター・後G C C ) が参加するユニ バック系の日本計算センター協会があった。 また、 当時産経新聞社長の稲葉秀三は野村コンピュータシステム( 後野村総合研究所 )の大野達夫、 伊藤忠電子計算サービス( 後伊藤忠テクノソリューションズ株式会社(CTC)  )の塚本祐造らと同新聞社の河端照孝記者の仲立ちで懇談会をもっていた。 これらが統合される形で昭和45年(1970)11月に任意団体日本情報センター協会が発足し、 7月に社団法人日本情報センター協会として設立が認められたのである。

IT の推進的役割・稲葉秀三と河端照孝

稲葉秀三は、 戦前は企画院、 戦後は経済安定本部次長を勤めた後、 シンクタンクの会長、 N H K 解説委員のほか、 数多くの団体、 審議会の役職を歴任した人である。 稲葉は昭和34年(1959)にアメリカ政府に招かれてコンピュータ産業、情報サービス産業を視察する機会を得た。 これに稲葉は非常な感銘を受け、今後はコンピュータを中心とした情報産業の時代が来ると予感した。 昭和42年(1967)に産業構造審議会「 情報産業部会 」がつくられ、 その委員に就任し、後に部会長に就任している。さらにコンピュータの初のユーザー団体として平田敬一郎日本開発銀行総裁、 植村甲午郎経団連会長( 当時 )等と共に日本電子計算開発協会を設立。 翌年財団法人日本経営情報開発協会に名称を変更、 副理事長に就任、 昭和44年(1969)には理事長に就任した。 日本情報センター協会の設立総会は、 この日本経営情報開発協会の事務所を借りて行われた。 稲葉は請われて昭和50年 (1975)まで日本情報センター協会会長を努めた。 知名度の高い稲葉の会長就任は、 まだ充分に認知されていない業界のステータスを格上げするために不可欠であった。 日本情報センター協会が取り組んだ大きな課題の―つは、 当時電電公社が独占していた通信回線の開放問題であった。

昭和48年 (1973 )に日本経営情報開発協会は日本情報開発協会と名称を変更し、 稲葉はその理事長に就任した。 その後昭和51年 (1976)には日本情報処理開発センターと情報処理研修センターを統合し て、現在の財団法人日本情報処理開発協会( 会長・児玉幸治 )となった。 この意味で稲葉のI T ビジネス業界に果たした役割は大きい。

この稲葉の「 秘書役 」が河端照孝( 後日本教育情報機器社長 )であった。 河端は昭和38年(1963)に法政大学を卒業し、 産経新聞社に入社、 後に関連の日本工業新聞社に配属された。 先輩記者たちは既にそれぞれの担当産業分野をもっており、 河端に残されていたのは、 当時赤字で苦しんでいた通信分野とコンピュータ産業だった。

昭和39年(1964)、 河端は産経新聞社に戻り東京オリンピック担当になる。 そこでI B M のコンピュータを駆使したデータ電送に出合った。その後日本工業新聞社に出向し、そこでコンピュータメーカーの協力を得ながら、 日刊工業新聞、 電波新聞、 電気新聞の各コンピュータ担当の記者たちと、日本で最初のコンピュータ専門記者クラブ、「 巴( ともえ )クラブ 」創設に奮闘した。河端は昭和40年(1965)、 ニューヨーク世界万国博の視察に移動特派員として派遣され、 アメリカのコンピュータメーカー各社を訪問する。 この時、 国内では唯一外資とは提携していなかった富士通の小林大祐常務( 当時 )から、 アメリカのコンピュータメーカーCDC社かバロース社との技術提携を打診する手紙を預かっていた。 CDC社はこれを断ったが、 バロースは興味を示し、 当時代理店であった高千穂交易の鍵谷武雄社長を窓口にして交渉が行われた。

しかし、 出資比率で折り合いがつかず、 富士通は外資との技術提携をあきらめざるを得なかった。 そこで高千穂交易は、 富士通のF A C O M シリーズを購入し、 米国の高千穂交易駐在事務所を通してアメリカヘの輸出を図った。 これが純国産コンピュータ輸出の第一号となった。

河端は帰国後、 超大型機の輸入禁止時であったが、 私立大学や研究機関の利用を目的とした東洋最大のコンピュータセンターの開設、 コンピュータユーザー団体の結成、 これらを支援するためのコンピュータ雑誌の刊行の三大企画を社に提案する。 これが当時産経新聞社長であった稲葉秀三の目にとまった。稲葉は東洋最大のコンピュータセンター開設に乗り気であったが、役員会の承認が得られず大コンピュータセンターは残念ながら実現しなかった。

しかし、ユーザー団体の結成は前に述べたように日本電子計算開発協会の設立で実現する。河端はアメリカ訪問の際にみたメーカーを横断したコンピュータユーザー団体が日本でも 必要だと痛感した。 稲葉もゴーサインを出したので、 河端は当時の戸谷深造電子工業課長に説明し理解を得た。これが次の根橋正人電子工業課長にも引き継がれ、 日本電子計算開発協会が設立されたのである。

また河端は、当時アメリカにあったコンピュータメーカCDC社の躍進物語を日本工業新聞に「 コンピュ ートピアに架ける橋 」として連載した。 その後、 産経新聞社と日本工業新聞社の子会社コンピュータ・エージ社が設立され、 この新聞の連載記事の題名から名付けられた日本初のコンピュータ専門の月刊誌「 コンピュートピア 」が発刊された。

河端が日本のI T 産業史に与えた影響は、 これだけにとどまらない。 昭和41年(1966)のある日の夕方、河端は赤坂一ツ木通りのラビアンローズという店で大久保茂ら数人と出会う。オフレコという約束で話を聞くと、日本最初のソフトウエア企業の設立を計画していると いう。河端は、それは少し無謀だとアドバイスをしながらも、 10月1日以前に設立しないと日本初にはならないといって、 日本ソフトウェア設立計画の話をした。 そのために大久保らによるコンピュータアプリケーションズの設立は急遽、 8月に早められたともいわれている。

また昭和42年(1967)初春には、 野村コンピュータシステムの大野達夫、 伊藤忠電子計算サービスの塚本祐造が河端を訪ね、業界団体を作りたいので稲葉にぜひ協力して欲しいと要望した。それに基づいて前述の稲葉を囲む計算センターの懇談会ができたのである。 この当時すでに計算センター、 ソフトウエア企業合同の「 日本情報処理産業協会 」を構想していたと いう。 ところが河端は通産省電子政策課長平松守彦から情報処理振興事業協会を作るので、 業界団体は複数あった方がよいという意見を聞く。 大野、 塚本や河端等は抵抗したが、 結局は「 日本情報処理産業協会 」の構想は消え、近い将来ひとつになるという約束のうえで、昭和45年(1970)ソフトウェア産業振興協会と日本情報センター協会の二つの社団法人が発足した。

昭和43年(1968)、 稲葉は産経新聞社社長を辞任する。 同時に河端も稲葉とともに産経新聞社を退社する。 稲葉は日本経営情報開発協会の副理事長になり、 河端は副理事長付きの肩書きはもらったが二人は無給。 河端はアルバイト原稿を書きながら稲葉の秘書役を務めた。 稲葉が親友の江戸英雄三井不動産社長( 当時 )に超高層オフィスビルについてアドバイスしたことから、 新築の霞が関ビルの30階に事務所を置くことができ、そこに日本経営情報開発協会は移転する。加えて河端は日本情報センター協会の事務局も同居させてしまう。 さらに稲葉と河端は産経側と交渉の末、 コンピュータ・エージ社を産経新聞社の子会社から独立させ、 同社もこの階に同居することになる。また、河端は昭和45年(1970)から平成5年 (1993 )までコンピュータ・エージ社の社長を務め、「 コンピュートビ ア 」など の月刊誌やコンピュータ関連書籍の発刊を行う一方、 日本で初めて全国の大学16校が加盟した日本学生電子計算機連盟を設立した。 また、財団法人国際A I 財団の発足、コンピュ ータプログラム開発コンテスト、 情報化週間( 後情報化月間 )中における銀座ソニービルでのコンピュータアート展開催などを提案、 実現し、 さらに「 コンピュータ白書」(後「 情報化白書 」)「 情報サービス産業白書 」等を発刊した 。このように河端は稲葉の片腕となりながら、 日本のI T ビジネスの発展に尽力してきた 。

さらなる飛翔の世紀へ

1970 年代に入ると、この産業も急成長期に入る。 この時期にはコンピュータメーカーがソフトウエア部門を分離し 、別会社化した。 同様に銀行などもコンピュータ部門を分離し 、子会社とした。

さらに 、昭和46年 (1971)にインテルにより開発されたマイクロプロセッサの出現が社会に衝撃的なインパクトを与えるという予測が、 1970 年代末から80 年代に入って現実化してくる 。そのためこれまでの大型汎用コンピュータを中心としたI T ビジネスから 、パーソナルコンピュータなどを利用した多様なビジネスヘと転換することになる 。昭和44年(1969)にシステムコア( 現コア・種村良平) 昭和46年(1971)には東京システム技研北小路矗)、昭和51年(1976)にスタット・サプライ( 現ソラン・北川淳治)昭和54年 (1 979)に日本ナレッジインダストリ( 現アイエックス・ナレッジ・西尾出、 春日正好 )などが設立された 。

この頃 、北小路は( 社 )ソフトウェア産業振興協会、( 社 )日本情報センター協会が共催した第4回世界情報処理産業会議( 昭和59年・1984 )など、得意の英語を使って活躍し、国際交流に貢献した。

ちなみに種村は日本電子開発、 北川淳治はN B C 、 日本情報開発( 現エヌアイデイ )からのスピンアウト組である。西尾、春日は三井情報開発から数十人という集団でスピンアウトした。昭和56年 (1981)には象徴的な現象が起きた。 この年初めて業界全体の売上高のうちソフトウエア開発の売上高が、 受託計算の売上高を上回ったのである。つまりハードウエアが値下がりし、世はソフトウエアの時代へと突入した。

しかし、昭和57年 (1 982)に事件が起きる。I B M 互換機路線を進めていた日立が、 I B M の情報を不正に入手したという知的所有権問題に巻き込まれたのだ。これを打開するために日立ソフトウェアエンジニアリングの社長に就任したのが佐藤孜である。

昭和59年(1984)、前述の第4回世界情報処理産業会議の共催後、 ソフトウェア産業振興協会と日本情報センター協会が合併し、正式に社団法人情報サービス産業協会となった。 二つの業界団体ができて14年目の出来事である。

同じ昭和59年(1984)、日本ユニバックの取締役営業本部長であった佐藤雄一朗は集団退杜してアルゴ21を設立する。

また昭和60年 (1985)には、 岸田 (S R A ) がソフトウエア技術者の団体、ソフトウア技術者協会を立ち上げ、 ソフトウエア技術の向上に取り組む 。

さらに昭和63年 (1988)N T T のデータ通信本部が別会社として独立し 、日本最大のI T ビジネス企業N T T データ通信( 現N T T データ・藤田史郎 )が誕生した 。

その後しばらくしてネットワーク 、インターネットの時代を 迎え、 I T ビジネス業界はさらに大きく花開いていくのである。

むすび

まえがきでは 、これから取り上げる人々を中心にI T ビジネスの流れをごく簡略に追ってみた 。あくまでこれは骨格である。この業界が今日に至るまでに展開された本来の豊かな内容は 、それぞれの物語をぜひ読んでいただきたい。そこには、多くの感動的なドラマと幾つもの示唆が新鮮に躍動していると考えるからである。なお、ここにご登場の方々には可能な限りそれぞれの現状や動向、 将来性などを述べていただいたが、その他にも業界をリードされた方はまだ多くおられる 。できるだけ多くの方々に取材申し込みを行ったが、 時間的な問題もあり残念ながら実現に至らなかった方々もある。 読者の方にはその点をご理解いただきたい 。ますます発展拡大する情報サービス産業界であるだけに、 今後も さまざまな視点から直視しつつ 、機会があれば 、さらに多岐にわたってその動向をお伝えしたいと考えている 。

 

( 注 ) 太字はここで取材した人物および企業である 。
まえがき 、および本文中の登場人物の敬称は省略させていただいた 。

ここでは固有名詞で「ソフトウェア」とされている場合を除いて「ソフトウ
エア」と表記している。

これは梅澤隆・内田賢「ソフトウエアに賭ける人たち」コンピュータ・エージ社刊 2001年10月の「まえがき」を一部書き換え、本文の一部を再編集したものである。

 

【 参考文献】
蝦名賢造「 稲葉秀三」西田書店刊( 平成4年 )

情報処理学会歴史特別委員会編「 日本のコンピュータ発達史 」オーム社刊( 平成10年 )

ソフトウェア産業振興協会編「( 社 )ソフトウェア産業振興協会十四年史」ソフトウェア産業振興協会刊( 昭和59年 )

高橋茂「 コンピュータクロニクル 」オーム社出版局刊( 平成8年 )

( 社 )日本情報センター協会編「 十年の歩み」(社 )日本情報センター協会刊( 昭和57年 )
「 ユニバック30年のあゆみ 」日本ユニバック( 株)刊( 昭和63年 )

「日本コンピュータ開発群像」日刊工業新聞社刊 (昭和61年)

「日本アイビー・エムの歩み」『日本アイビー・エム会社案内』日本アイビー・エム(株) (刊行年不明)

(takashi umezawa)

 

注 社名、所属、役職等は取材時のものである。

 

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