丸森 隆吾(まるもり りゅうご)

◆プロフィール◆

昭和10年(1935)宮城県生まれ。平成23年(2011)没。昭和34年(1959)早稲田大学商学部卒業。昭和37年(1962)早稲田大学商学研究科修土課程終了。同年沖ビジネスマシン販売(株)に入社、その後沖電気工業(株)。昭和42年(1967)ソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(SRA)取締役、昭和44年(1969)(株)SRA代表取締役社長就任。(社)情報サービス産業協会副会長などを歴任。

 

 

 

 

SRAは、その独特の社風と先進的な技術力で知られたソフトウエア企業である。同社は昭和49年(1967)11月に設立された。前年の昭和41年(1966)8月にわが国で最初のソフトウエア企業が設立されているので、同社は、ほぼわが国のソフトウエア産業の歴史とともにあることになる。

映画館二階のコンピュータセミナー

丸森隆吾は、昭和33年(1958)秋頃から叔父が経営する新宿の映画館の二階で開かれていた「電子計算機入門セミナー」をアルバイトで手伝っていた。そこで出会ったのが盟友、岸田孝一同社最高である。「映画館の上でセミナーをやっていたから、入り口は同じ。日活映画が見られて、バイト料も入るので喜んでやりました。岸田君が手伝っていたのも同じです。もっともセミナーが終わった後、飲みに行ってアルバイト代の何倍か飲んでしまいました」

その後、丸森は修士綸文「店頭市場論」を書いて早稲田大学大学院商学研究科を卒業する。その時の指導教授から「沖ビジネスマシン」を紹介されて入社する。そこには数ヵ月前に岸田も入社していた。

当時沖電気はコンピュータの自社開発を目指していたが、その販売会社が沖ビジネスマシンであった。ところがコンピュータの自由化問題が起こり、各社はアメリカのコンピュータメーカーと次々に提携していった。例えば昭和36年(1961)には日立とRCA、昭和37年(1962)には日本電気とハネウェル、三菱電機とTRW (トムソン・レーモ・ウールドリッジ)、昭和39年(19364)には三菱電機とGEが提携した。

しかしそれは技術提携、技術導入にとどまった。だが沖電気のみは昭和38年(1963)にユニバックと合弁会社を作り、そこでユニバックコンピュータのノックダウンを行うことになった。これに伴い沖電気はコンピュータの自社開発から撤退したのである。その結果丸森たちはユニバックのコンピュータを売らざるを得なくなった。「昨日まで一生懸命売っていたコンピュータがダメで、昨日までダメといっていたものを扱えということです。そんなことでは、どうしようもないぞという心境になりました」

また沖電気の電子計算機事業部長が当時、「日の丸ソフトウエアハウス」といわれた日本ソフトウエアに技術担当役員として転職してしまう。

じゃあ、やってみるか

この結果、丸森らコンピュータ部門の技術者は、「親分」においていかれる形になってしまい動揺した。さらに沖ビジネスマシンも沖電気に吸収合併される。

この時、丸森は担当ユーザーである「東化工」が自社のコンピュータ部門を分離して計算センターを設置する計画を知り、丸森を除いた岸田を含む十数人がそこへ移籍した。ところが今までOS周りのユーティリティ、コンパイラなどを作ることが生き甲斐だった技術者集団である。計算センターで使う給与計算などアプリケーションソフトウエアの開発が面白い筈はない。やはり不満が出てきた。そのために丸森は新しい会社を設立することになる。

「飲み仲間が会社を辞めたいというので会社を作りました。じゃあ、やってみるかという感じです。先見性やリーダーシップがあったわけではありません。常に周りにいる不満分子に担がれた結果です」と丸森は述べている。

こうして昭和42年にSRAが設立される。SRA伝説の一つとして、一般には創業に参加したのは「七人」といわれているが、それには丸森は入っていないという。「世間では創業の『七人のサムライ」ということになっているので、そうしておきましょう」というのは丸森の弁である。

現在SRA の日本語読みは「エス・アール・エー」だが、本来は「ソフトウエア・リサーチ・アソシェイツ」で、海外では現在もこの社名を使っている。この「アソシェイツ」という語からも、創業時SRA の「志」と雰囲気を見て取ることができる。あまりにも社名が長すぎて、出前をもってくるそば屋さんが最後まで社名を覚えられなかったというのもSRA伝説の一つである。

創業にあたって丸森以外は全てソフトウエア技術者であったので、技術者ではない丸森が資金を出し、営業を担当した。しかし、丸森はすぐにSRA に移ったわけではない。一年半近く沖電気と二足のわらじを履き続ける。もちろん「会社の上司には二足のわらじを履いていることは言わなかったが、おそらく知っていたと思います」。こうして平日は沖電気に行き、週末になるとSRA に出社した。その間「沖電気の営業をしながらコンピュータを導入したけれど、ソフトウエア開発に人が足りないという会社にはSRAを紹介してSRA の営業もしました。また、SRA ではソフトウエア技術者が不足していたので、人集めもしました」。

ところが一年ほどして、また問題が起こる。岸田の一派とその後に入社したソフトウエア技術者の間でソフトウエア開発の方法論を巡って、対立が生じたのである。丸森は両者の調整役として苦労したが、「なにしろ技術者の集団ですから、お互いに流儀を巡って譲りません。そのうち悪いのは二足のわらじをはいている丸森だということになり、沖電気を退社して、SRAに入れということになりました」。このような創業時を回顧して丸森は「毎日バカばかり言って楽しかった。自分が生きている実感があった」という。

ところが会社を設立したのはよいが、仕事が全くなかった。もともと当時はソフトウエアはハードウエアに付属する無料のサービスと見られていた時代である。なにしろ「ソフトウエアは日本電気も、富士通も、日立もカタログには書いてあるんですけれども、実際には何もないというひどい状態でした」。そして、もっと大きな問題は「ソフトウエア開発という仕事からどうやってお金を貰うかが問題でした」と丸森は回顧する。それまでソフトウエアはハードウエアを購入(レンタル)する際の「おまけ」であり、ソフトウエア自体に価格は付いていなかった。ところが昭和44年(1969)のIBM のアンバンドリング政策により、ハードウエアとソフトウエアの価格を分離することになり、ソフトウエアに独立の価格が初めて付いたのである。初めてソフトウエアに価格が付いたことでソフトウエア産業にとっては追い風となったという。

ともかく仕事がなかったのでユ二バックのマニュアルの翻訳などで何とか稼いでいた。開業から半年間はまったく入金がなく資金が不足し、丸森は銀行に資金を借りに行った。ところが銀行から融資を断られてしまった。この時初めて丸森は会社とはこうして潰れるのか、と実感したという。また学校で習ったこととは違って、銀行は融資をしてくれないこともあるということを知ったという。

このような状態を打閲するため、日本橋の丸善にソフトウエア関連の洋書が入ると、すぐに版権をとり、社内で輪読会を行い翻訳した。同社は創業当時から週休二日制をとっており、土曜日に勉強会を行っていた。そこで輪読会を行ったのである。そこで翻訳したものをダイヤモンド社などから出版した。出版した本を客先にもって行き、会社の宣伝をしたのである。これが功を奏して次第にソフトウエア開発の仕事が入ってくるようになった。また昭和45年(1970)、昭和46年(1971)頃にTBS の「コンピュータ講座」に協力したこともSRAの知名度を上げた。

社長はそこまで落ちたのか

しかし、この時点ではOS周りのソフトウエア開発を目指していたので、客先はあくまでコンピュータメーカーに限られていた。ところがある時ユニバックの担当者に、コンピュータメーカーからの発注では仕事量に限界があるのだから、エンドユーザーのソフトウエア開発もやるように勧められた。その勧めにしたがって丸森は野村証券の内部資産管理システムの受注に成功する。しかし、「社内に持ち帰ると、評判は最悪でした。俺たちはユーザーのアプリケーションを作るために集まったのではない。社長はそこまで落ちたのかとまで言われました」。それを何とか説得して、内部資産管理システムの開発にあたらせた。ところがまた問題が起こる。珍しく酒も飲まずに早く帰宅した丸森のもとに一本の電話が入った。「相手は野村証券のシステム管理部長でした。日中、当社の技術者に会ったので、『納期は大丈夫かね』と聞いたそうです。すると技術者は、『いえダメでしょう』と言っちゃったんです。相手はカンカンに怒って、納期が遅れることを言わないのは失礼だ。夜の十二時まで会社にいるから納期がどうなるか返事をしろということになりました」。それから丸森は急遽、技術者を招集する。「八丁堀の焼鳥屋や麻雀屋にいる技術者をかき集めて聞くと、システムは出来ると言うのです。ただ土曜と日曜の深夜二時間、野村のコンピュータを使わせてくれという条件を付けました」

そして「間題の納期の月曜日九時にテストランをしてOKとなりました」。これでSRAは高い評価を得ることになる。「納期を守るSRA」という評判が定着したのである。当時SRAがもっぱら願客としていたコンピュータメーカーでは、一応納期はあっても、それが守られることはほとんどなく、ソフトウエア技術者の側にも納期という意識が特になかった。これはそのために起きた事件であった。

ソフトウエア企業にとって大切なのは擾秀な人材の確保であるという。昭和45年(1970)前後からSRAも新卒者の採用を閲始した。ところが時代はまだいぶ「全共闘」時代をたっぷり残していた。「入社したての社員から質本家と言われて、最初誰のことを言っているのか分かりませんでした。岸田君なんかは資本家と言われて、おれたちは資本家なんだと言って喜んでいました」と丸森は当時のとまどいを回顧しつつ、「仲間内でやっているなら、ダメなら潰れればいいじゃないかと言えるが、新卒を採るとそうとは言えません。社会的責任を強く感じました」

VAX11の導入が転機に

SRAの転機は二つあったという。第一は、既に述べたようにユーザーのアプリケーションソフトウエアを受注し始めた時である。

そして第二は、昭和55年(1980)DEC社(当時)のVAX11というUNIXをOSとするミニコンピュータを導入した時である。当時、このコンピュータを導入したのは東大、日立の中央研究所、富士通の研究所であった。岸田がこの導入を主張した。しかし、資金がないので丸森は許可しなかった。しかし、「それでも岸田君が何とかならないかと言うもので、ボーナスは出ないかもしれないよ」と言ってVAX11の導入が決まった。当時を振り返って、丸森は「あの時UNIXをOSとしたVAX11を入れなかったら、SRAはつまらない『普通の会社』になっていた」と言う。UNIXをOSとしたVAX11を導入することによって、ソフトウエアの部品化の具体化に向かって第一歩を歩み始めることが出来たのである。そして、それはソフトウエア開発の生産性の向上、ソフトウエアの品質の向上をももたらしたのである。

しかし、丸森の活動はSRAという一ソフトウエア企業を設立したことにとどまらない。「会社作りより産業作りの方に傾きすぎたことを反省すべきかもしれない」とも述べている。ソフトウエアの価格さえなかった時代に、ソフトウエア企業を起こし、それを発展させるためには、自己の会社を超えて、ソフトウエア産業という新しい産業を世間に認知させなければならなかった。このような当時の状況から見れば、それはいたしかたないことだったのかもしれない。いずれにしても時代がそのような人を求めていたともいえよう。

「あまりお金には気持ちがいかず、俺たちは産業作りをしているのだという意識が強かった。こんなきれい事を言っていてもそれがだんだん本当になるんです」。当時はこの業界の揺らん期であり、多くの問題も抱えていた。例えば当時、ソフトウエア産業は離職者が多く出ており、「私学連盟から、ちゃんとした産業として、社会的責任を果たさないと学生を送らない」とまで言われたという。丸森の活動は、このような状況のもとで「業としてのソフトウエア産業を定着させようとした」のである。

具体的には、昭和44年(1969))通産省(現経済産業省)の当時課長であった平松守彦(後大分県知事)から業界団休を作るように要請され、何人かのソフトウエア企業の経営者と共に、(社)ソフトウェア産業振興協会という業界団体作りにもかかわっている。また丸森は、業界の健保組合や厚生年金基金の理事長を歴任している。

確かに産業として定着させるのに苦労はあったが、業界はある意味では恵まれていたとも言う。というのは「コンピュータ技術を活用して、社会、生活を変えたのが我々の仕事だったのですから」

今後の情報サービス産業について、丸森は「安く、早く、より良いモノを求める間、IT技は発展していく。おそらく21世紀いっぱいは発展する。」と見ている。そして「社長をやっていることは落ちこぼれなんです。優秀な成績でいい会社に就職するのが一番良いという時代だったわけですから。そういう時代に会社を始めたということは落ちこぼれなんです」。そして、これからは今までのような落ちこぼれや異端児の社長ではなく、ほんとうに優秀な人が社長になれば日本のベンチャー企業は面白くなるとも言う。

最後に盟友、岸田による丸森評は、「『まるさん』は、まじめな人」である。

(takashi umezawa)

 

注 所属、役職等は取材時のものである。

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