野崎  克己(のざき かつみ)

◆プロフィール◆

 

昭和三年(1928)束京生まれ。平成十六年(2004)没。立教大学経済学部卒業。昭和三十七年(1962)束京機械計算事務所創業。昭和三十八年(1963)十二月(株)東京データセンター設立、代表取締役社長。昭和五十三年(1978)社名を(株)ティーディーシーに変更、昭和六十一年(1986)社名をTDCソフトウェアエンジニアリング(株)に変更。平成八年(1996)代表取締役会長。平成十二年(2000)六月顧闘。全国門報サーピス産業厚生年金基金元理事。(財)ソフトウェア情報センター元理事。(社)サービス産業協会元常任理事。

 

 

 

TDCソフトウェアエンジニアリングはデータ入力に始まり、計算センター、そしてソフトウエア企業へと転進をとげた企業である。その歴史は情報サービス産業の歴史と軌を一にしている。

野崎克己は昭和二十六年(1951)大学卒業後、父の知人が社長をしていた八幡製鉄(現新日本製鐵)系列の北日本砂鉄鉱業に入社、経理畑を歩んだ。しかし、メカ好きでカメラに凝ったり車のリストアーを趣味にした野崎にとって、経理畑の仕事は必ずしも満足できるものではなかった。野崎は言う「就職する先がなかったので行っただけで、決して心から入りたいとかそういうことではなかったんです。運命にそのまま従っただけです。心底好きな商売ということではなかったんです」。

コンピュータヘの強い関心

そんな野崎に転機が訪れたのは昭和三十四年(1959)である。当時経理部長に就任していた野崎は取引先である富士銀行を毎日のように訪れていた。富士銀行は昭和三十三年(1958)から事務合理化を進めており、野崎が立ち寄る数寄屋橋支店の四階に事務(コンピュータ)センターが設けられていた。当時同銀行の事務センターではUNIVACが既に導入済みで、これからIBM のコンピュータを入れるという時期であった。これらのコンピュータがメ力好きの野崎の心を揺さぶったことは想像に難くない。「ちょうど、わが国でも電子計算機を含む電子工業の振興に乗り出した時期でもあり、またアメリカからのコンピュータ技術の導入を図ろうとしていたこともあって、よし、ひとつ電子計算機を覚えてやろうと思った」のである。

昭和三十五年(1960) にはユーザーのみしか参加できないIBM の講習会に「富士銀行の行員」ということにして参加する。短いもので三日、長いものだと一週間というセミナーを二年間受請する。その中でパンチカードシステムからIBMll401 の論理回路まで勉強した。メカ好きの野崎はこのセミナーを受講して、どうしてもコンピュータにかかわる仕事がしたくなった。ところが勤務する北日本砂鉄鉱業でこの夢を実現することはとうてい無理だった。

親会社である八幡製鉄の「経理部機械計算課」、「富士製鉄総務部機械計算課」の課長たちに、新会社を設立したら仕事をくれるかと相談すると、応援してくれるという返事をもらう。富士銀行の事務センターにも相談すると、これも応援してくれるという。

勤務先の社艮も理解してくれて、データ入力の事業を開始する。しかし、難問が二つあった。一つはIBMは穿孔機 (パンチカードシステム)を大企業にしかレンタルしておらず、まして個人にはレンタルしていなかった。「IBMが機械を貸さないということになりました。当時機械はすべて輸入品で国産機はありません。輸入関税などが高くて、非常に高価であったので、大企業にしか貸さなかったのです」。しかし、この間題はある著名人を通じて折衝してもらい、日本で初めて個人でレンタル契約を結ぶことに成功した。

ところが今度は、それを操作するパンチャーが集まらなかった。「情報サービスなんて概念がどこにもない。産業分類にもない。したがってプログラマとかキーパンチャーを求めて職安に行っても、頭から相手にされないという時代でした」。そんな中、コンピュータの導入に先進的であった小野田セメントなどを結婚退職したパンチャーの女性を何とか十一人集める。そして、昭和三十七年(1962)十月にTDC ソフトウェアエンジニアリングの前身となる「東京機械計算事務所」の操業を開始する。もちろん創業当時はデータ入力に絞って事業を展開し、野崎は営業、納品と飛び回っていた。また資金にも苦労したという。「カネには苦労しました。三年半くらいは会社の収益の中から給料を貰うことはありませんでした。出す一方でした。金融機関が、産業分類にもない会社に融資するわけはありません」

夜食とアルコールを用意して作業

昭和四十年(1965)頃から野崎は、このままデータ入力業務を続けていたのでは会社の将来性はないと見切りをつけ、当時次第に増えてきていた計算センターヘの転進をはかる。そのためにはコンピュータを設置しなければならない。しかし、その資金はなかった。そこで大手ユーザーのコンピュータの空き時間を利用して、受託計算業務を開始した。ところがユーザーのコンピュータの空き時間を利用するので、どうしても利用時間は深夜になってしまう。またユーザーは金融機関なので、夕方に入ると翌朝までは、建物を出ることが出来なかった。野崎は夜食とアルコールを用意して作業にかかった。というのはコンピュータセンターは空調が利きすぎるくらい利いていたので、アルコールでも飲まないと体が冷えてしまい寝付けなかったのである。

そして昭和四十一年(1966)、念願のコンピュータFACOM230-20を導入する。この導入にあたっては日本電子計算機のレンタル制度を利用した。レンタル料は月々二百五十万円であった。

しかし、野崎はこの計算センターヘの道もバラ色でないことを悟る。計算センターを志向して、どんどん大きなコンピュータにリプレイスしていくには、資金面でも限界を感じるようになる。「当時オンラインパッケージの開発には二億円かかると言われました。当時のマシンの能力を使って実現する広域情報処理のハシリです。とてもそんな大金は調達できないということで、このままいったらどうなるんだということを常に間いながら経営をしてきました。このままいけば所詮大きなところの尻の下に敷かれて行き詰まるだろうということが分かりました。計算センターを志向していても、無制限に大型機を人れられるかというとそうはいきません」

一方、ソフトウエアの売上高の伸びはハードウエアをはるかに上回っていることも知った。「電子協(日本電子工業振興協会、現電子情報技術産業協会)と通産省(現経済産業省)のデータを見ていたら、ソフトウエア開発の伸び方がすごいんですね。毎年、毎年、売上高が対前年比三十%近く伸びているのですから。十年経ったらどんなになるかというと大変なことですよ。倍々とはいわないまでも、かなり急テンポで伸びることが分かりました。まったく落ち込みがなかったですから。そんなわけで計算センターからソフトウエアハウスヘの転換を図りました」。つまりデータ入力から計算センターに続く、計算センターからソフトウエア企業への再度の転進である。しかし、この転進には十年近くかかったという。

その間には富士通のコンピュータのOS周りの仕事を行い、それは現在まで三十年近く続いている。IBM に対抗すべく、富士通は当時FACOM230-50を開発し、つぎにFACOM230-60というマシンを開発していた。これらのOS周りのソフトウエア開発を行う人員が足りなくなり、それに同社のソフトウエア技術者が協力したことがきっかけであった。これが、同社が基盤技術に強いソフトウエア企業になったスタートである。しかし、これらは「ヒ卜貸し」ではないという。つまり「本来なら、コンピュータメーカーとしてOS のその範囲は外部に出すものではないのです。しかも富士通の沼津工場には一人も社員は行っていません。来年度はOS のこの部分をこんな形でバージョンを上げるというテーマを貰って、全部社内でやっています。それを三十何年やっているわけですから、今日それだけの信用を勝ち得るまでになっているということです」。さらに「ソフトウエアハウスとして紙一枚一枚を汚さずに積み上げていくというのが信用につながるわけでして、世間に噂されるほどのひどいドジも踏まずに、こつこつ着実にやってきました」とも野崎は言う。

ソフトウェア産業振興協会の設立

野崎の活動は―つの会社にとどまるものではなかった。昭和四十五年(1970) には情報化促進法が成立し、またIPA (情報処理振興事業協会)を通じた融資保証制度も出来た。野崎によればこれらは日本の情報サービス産業、ソフトウエア産業の成立に強い追い風になったという。野崎自身も業界団体の結成に動く。「規模だけ大きくなっても、産業として成り立たない可能性がありました。一社では何も出来ないのですから、大企業と対等に渡り合うには業界全体として対応しなくらゃいけないと考えました。当時、構造計画研究所の服部さんが会長になられたが、その構造計画さえ二億円か三億円の売り上げしかないのですから。何とか認知される産業にならないといけないどいう思いがあり成した」。そして昭利四十五年(1970)に任意団体が設立され、翌昭和四十六年(1971)社団法人ソフトウェア産業振興協会が設立される。同時に社団法人日本計算センター協会という計算センターの業界団体も設立されたが、既に計算センターからソフトウエア企業への脱皮を図っていた野崎は、ソフトウェア産業振興協会の創設メンバーとなった。つまり「計算センター業務は全部止めようと思っていましたからソフト協の創立当時から加盟しました」。

当時のことを野崎は「当時我々も若かったですから、かんかんがくがくの議論をしながら、役所に行ってネジ巻いてこいとか、情報産業振興議員連盟に行って泣きついてこいとかよくやりました。会社の仕事を犠牲にしながらね」と語る。野崎はその中でソフトウェア産業振興協会、後に情報サービス産業協会の財務委員長を長く務め、また全国情報サービス産業厚生年金基金や健保組合の整備に大きな貢献をした。

当時のメンバーで存命なのは野崎を含めて日本コンピューター・システムの舟渡会長、SRAの丸森社長の三人になってしまったという。「私はソフト協の立ち上げ期の原動力の一人で、今残っているのは三人しかいません。みんな亡くなりました」。

また、この頃行政面でも動きがあり、通産省(当時)の組織が改編された。それまではコンピュータメーカーに対応する電子政策課が付帯的にソフトウエア産業、情報サービス産業にも対応していたが、新たに情報処理振興課が設けられて、もっぱらソフトウエア産業を含む情報サービス産業に対応することになった。

野崎は、今後のIT産業はますます多忙な産業になっていくと言う。「最新のIT の情勢を一回勉強しても半年後にはもう変わってしまうという、めまぐるしい世界になってきました。技術者が常に勉強していくことが、そしてその総和が会社のレベルを高めます」。「無線技術は歴史的に完結したと言われていた技術ですよね。それがi モードとともに数千万人に、一挙に広がるというのは凄いことです。人類杜会に対して情報技術が与えるインパクトは、何が起こるか分からないほど大きなものです」。また、ソニーとNTTドコモの提携発表の三ヵ月前にもかかわらず、野崎は「ドコモiの モードとソニーのプレイステーションが合体していくと凄いことになるのじゃないですか。あっという間にそうなりますよ」とさえ予言している。

そして帝国と言われ圧倒的な支配力を持っていたIBM の独占的な支配体制が、わずか数年で崩壊したことに、今後のさらなるIT産業の激変を重ね合わせている。「私どもが時代の変遷を強く感じるのはIBMの動向です。ワールドワイドな会社で絶対的な支配権をもち、帝国とさえ言われていましたが、あっという間にその地位から滑り落ちたのですから」。

日本では七転八起は不可能

しかし野崎は、若者に対してベンチャーや起業を簡単には勧められないという。またベンチャー、起業とあおり立てる風潮にも疑間を持っている。これから起業を目指す若者には、リスクをおかしてもやるだけの確固たる心念を持てるかが重要であるという。さらに日本の現状は失敗したものが再起出来るような風土になっていないことが問題であると憂えている。「百人ベンチャー起業家がいても、成功するのは一人か二人です。アメリカでは失敗しても再起できるシステムがあります。七転び八起きといわないまでも、二回か三回ぐらいはチャレンジできるチャンスがあります。社会の懐の深さが日本とは違います。日本には敗者復活の土壌がありません。一度失敗したら、家屋敷は取られ、再起不能です。そういうリスクをおかして、起業する確固たる信念や覚悟があるかということです。しきりにベンチャー、ベンチャーといっていますけど。一度失敗した有能な人物をもう一回すくいあげるシステムを社会的に考えなければいけませんね。昔から七転び八起きといいますが、現代の日本の社会では事実上、不可能です」。このようにベンチャーや起業を取り巻くアメリカと日本の違いのみならず、野崎は日本の現状全体を憂えている。「私は昔から『憂国の士』ですよ。国家には背かれてきましたけどね。戦前受けた教育からは抜け出られないですよ」。

最近やっと幾つかの公職から、解放された。「私はオンリーフェイドアウェイしようと思ってますから、任せるだけまかせて業界からも去っていきたいと思っています。これ以上突っ張っていたらたちまちスクラップになっちゃいます。スクラップになる前にあれは隠居したんだというのが一番いい」。

今、野崎は四国路の遍路を続けている。すでに三十八カ所を回り、残りは五十力所。「俗物ですから、無我の境地にはなれませんけど、ただ歩くのみです。一回りしたら、がくっと行くんじゃないかなんて、脅かすやつがいるんですよ」。野崎はそう言って笑った。

(takashi umezawa)

 

注 所属、役職等は取材時のものである。

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