エレクトロニクスバンキングのエキスパート
梅田 進一(うめだ しんいち)
(株)NTTデータ
決済ソリューション事業本部ビジネスユニット長
◆プロフィール◆
195 6年生れ。1977年、日本電信電話公社 (現NTT (株)) に入社。データ通信分野に配属される。1978年、名古屋データ通信局で公衆販売在庫管理センターの維持作業に従事。1981年から3年間、技術訓練の業務に従事。1984年、データ通信本部に配属され、予算編成やコンピュータ関連の工事管理を担当。
1986 年より、ANSER システム関連の企画・開発・維持に従事する。1988年、NTTデータ通信(株)(現(株) N T T データ) へ離籍出向。ANSER の商品営業に従事。2 000年問題にも取り組む。サービスプロバイダー事業の本部組織立ち上げに従事。ANSERのインターネット化対応の支援部隊として活動。2001年よりANSER ビジネス全体を統括する。
現在、エレクトロニックバンキング(EB) や業務ネットワークシステムを担当している。
構造不況下での就職
一九七七年に日本電信電話公社(電電公社、現NTT)に入社した梅田進一だが、入社以来、電信電話分野の仕事とはいっさい無縁であった。データ通信分野に配属され、もっぱらコンピュータ関連の業務に就いていた。「研修では構造化プログラミングなどのソフトウエア工学を勉強しました。しかし現場はまったく違いました。現場は徒弟制の世界で、技術は先輩から盗むしかない状態でした」と梅田は当時を語る。
梅田は高等専門学校で機械工学を学んだ。就職は特殊鋼メーカーを志望していた。しかし卒業の年にあたる1977年は運悪く「構造不況」の時期であり、金属メーカーはいずれも採用を手控えていた。卒業ぎりぎりの二月になって電電公社への入社が決まった。
電電公社に入社した梅田は、当然電信電話分野に配置されると考えていた。
「電電公社がコンピュータをやっていることは少し知っていましたが、そこに配置されるとは思いませんでした」
入社後、中央電気通信学園(電電公社の教育機関)で一カ月の初任研修の後、希望する配属先を第一志望から第三志望まで選ぶことになる。
「第一志望は交換機、第二志望がケーブルでした。データ通信を第三志望にしました。しかし、なかなか志望通りにはいかないもので、第一志望、第二志望はダメで、第三志望のデータ通信に配属が決まりました」
「学生時代にはコンピュータの実習がありFORTRANでシミュレーションのプログラムを組むようなことはやっていました。しかしそれはあくまでユーザーとしてであって、仕事にしするのとはまったく違います」
研修でOSを開発
この中央電気通信学園での初任研修は現場での実習を含めて一年間続くが、それはかなり厳しいものであったらしい。この頃にアセンブラ言語を習得した。研修として与えられた課題は、DIPS(Dendenkosha Infomation Processing System )といわれる旧電電公社が開発したコンピュータ上で動くソフトウエアを、アセンブラン言語でつくるというものだった。その勉強も現在のように懇切丁寧な指導の下ではなかった。確かにマシンは24時間いつでも使えたが、あとは300ページほどあるアセンブラのテキストと課題集を与えられただけで、もっばら自学自習であった。
さらに後半三カ月の研修の課題は基本ソフトウエアであるOS(オペレーティングシステム)が搭載されていないコンピュータを与えられて、五人一組でそのOSを開発するというものであった。といともかくも今日から見れば非常に小さい規模であったがOSを完成させた。このOS の開発実習を通じて、「ソフトウエアの知識だけではなく、ハードウエアの知識も実体験として身につきました」と梅田がいうように、ソフトウエアの特定の命令が実行された時、ハードウエア上では何が起こっているかを身をもって知ったのである。
研修後、名古屋データ通信局に配属された梅田は、研修とは違う現場を体験する。
「本当に徒弟制の世界でした。朝から先輩のお茶くみをし、MT (磁気テープ装置)のヘッド磨きをしました。研修と現場の違いを痛感しました」
「千日訓練」
名古屋データ通信局に三年勤務した後、梅田は再び中央電気通信学園のデータ通信部に戻る。ただし今度は学生ではなく、教官としてである。梅田はこれを「千日訓練」と呼んでいる。つまり、この中央電気通信学園の三年間の教官生活は、単に学生に教えるだけではなく、学生を教育することを通じて「自分で自分を教育」する機会でもあった。ここでは一年目はOS、データベース関連の教育、二年目には上級SEの六カ月研修、そして三年目には研修プログラムの開発を担当する。教える側に回った梅田は、単なるソフトウエア技術者としてのキャリアだけではなく、より幅広い経験むことになり、それがその後の梅田にとって大きな資産になったといえよう。
この「千日訓練」の後、1984年、梅田はデータ通信本部の企画部門に配置される。ここではデータ通信本部内の予算編成、執行、計画などを担当した。驚いたことに、もっぱら電卓で計算して予算書をつくるという、まさに”屋の白袴”を地で行くような状態であった。何とかパソコンを一台買ってもらったが、梅田は非常にあせりを感じていた。というのは同期入社の技術者はソフトウエア開発の現場でOS関連や多様な言語を使ってバリバリ仕事をしている。本来、技術者である梅田にとって、予算編成、執行などの仕事をすることに内心恨泥たる思いがあったのだろう。その後、梅田は上司に願い出て、ソフトウエア開発の現場に戻る。その戻った先が、以降、梅田が一貰して関わることになるANSERシステムの開発現場であった
システムダウン
ANSERシステムとは音声合成、音声認識技術を利用した金融機関向けのエレクトロニックバンキングシステムであり、入金の連絡や資金移動依頼業務などを電話等を使って自動化するサービスである。このシステムの開発に梅田は携わった。
当時ANSERシステムは、増大するトラフィックに対応していくために、全国に配置した小型コンピュータによる分散処理で全国のトラフィックを処理していた。しかしながら、更改を機に大型汎用コンピュータを使った集中処理をすることとなった。
「大型汎用コンピュータで集中処理をしますが、音声合成や音声認識の実行速度が上がらないのです。それでソフトウエアをチューニングしなければならなくなりました。それまで高級言語で書いてあったソフトウエアをアセンブラに書き直して、やっと速度が出ました」
梅田の直面する苦労はこの程度のものではなかた。ANSERシステムはパソコンを利用したファームバンキング取引にまで、その使用が拡大した。さらに低価格の多機能電話を各メーカーが発売したことによって、中小企業を中心にこのシステムのユーザーが大きく増加した。この多機能電話機の場合には、パケット交換網から発信されるIDを使って、登録された回線以外からは取引できないというセキュリティー対策が施されていた。中小企業はこの多機能電話機を使って資金の振り込みや残高確認を行ったのである。ところがユーザーが拡大するに従いトラフィックが大きく変動するようになる。つまり月末には、振り込み、残高確認が想像を超えるほど増加してパケット交換網がダウンしてしまう。
「お客様の多くは中小企業ですし、通常の商慣行では支払いはなるべく月末ぎりぎりにしようとします。月末の朝の九時から九時半に一斉に残高確認、振り込みをするので、パケット交換網が耐えきれなくなります。その時パケット交換網ではデータはすべて破棄してしまいます。身軽になったパケット交換網は再び立ち上がりますが、また膨大なデータが集中して、落ちてしまいます。お客様が残高確認、振り込みを諦めるまで、の繰り返しです」
1992年のこの時、梅田はANSERシステム担当課長であった。梅田は、このシステムダウンの時には本当に「顔面蒼白」になったという。
「お客様の操作をコントロールできない以上、どのようにトラフィックを予想し、システムを安定的に運用したら良いのかが、難しい問題であることを再認識しました」
「制御システムと違って金融システムは直接的に人の命を奪うわけではないですが、決済できないことで会社がつぶれることもあるわけです。ですから、このシステムは単なるデータを中継しているのではなく、トラブルにより停止すれば企業の生死を決める要因になることもあるのです」
そして、梅田は次のようにも回想している。
「NSERシステムを使うのは今日はダメだと諦めて、銀行に直接でかけたり、午後に利用しようとするお客様がでてくると、アクセスが少なくなってシステムは回復します。これはシステムの設計者としては断腸の思いです」
梅田がいう「断腸の思い」は、顧客に迷惑をかけたこととANSERシステムを理解して展開し協力してくれた銀行ほど被害が大きかったということの二重の意味があった。
「ANSERシステムに一生懸命協力して頂いた方々に打撃を与えてしまったことは、本当に申し訳なかったと思っています」
梅田は月末ごとに各銀行の担当者に囲まれて、「また来月末にもシステムダウンが起こるのか?」、「今月は何とか乗り切ったが、来月末は大丈夫なのか?」と問いつめられたという。
NTTの協力を得て、設備を拡充することで、トラフィックの増大によるシステムダウンという困難を何とか乗り越えた。しかしながら「トラフィックの増大によるトラブルは、本来技術力でカバーしなければならなかったものです」と梅田は語る。
品質をつくり込む
このように一貫してANSERシステムに携わってきた梅田だが、その過程で多くのことを学んだという。
「ソフトウエア開発では、その工程をしっかり管理して、その中で確実に品質をつくり込んでいくことが必要です。開発標準を決めて、その通りにソフトウエア開発をやらないといけない。そしてアラームをいかに早く発見するかに、管理者は気を配らなくてはなりません。順風満帆にいっていると思えるソフトウエア開発ほど危ないものはないのです」
また、システム構築をしているとシステム構築自体が目的化しがちであるという。「システムはあくまでお客様の目的を達成するためのツールであり、基本の方針を忘れたところでエラーやトラブルは発生するものです」と梅田はいう。そしてそれを防ぐための鍵は「厳格なルール」と「コミュニケーション」だと指摘する。つまり、システムの構築には多くの人が関わるが、その人数が多くなるとどうしてもシステム構築の目的にズレが出てくる。それを防ぐためには、開発にあたって「厳格なルール」を決めて、必ずドキュメントなどの後で確認できるものを残すことである。こうすればシステム構築の目的や仕様に対する解釈のズレを最小限に抑えられる。
またシステム構築には多くの人が関わるために、その間の「コミュニケーション」も大切であるという。最近では分散してソフトウエア開発をする場合も多いが、開発上の問題が起こった時に、関わっている人たちがまったく面識のない人たちだとうまく対応することができない。
「たとえば面識のない人にメールのみで仕様の変更を頼んでも、実はうまくいきません」
このため梅田はシステム構築の開始時には、キックオフと称して関係者が集まる機会を設けている。また細かい交渉はメールなどではなく、必ず相手に直接会って行う。
このようにして、システム構築においてコミュニケーションを大切にしている梅田だが、この仕事に就いて以来、仕事関係以外の友人、知人との関係が次第に疎遠になってしまったことを残念がっている。
「生きているシステムを扱っていますので、何時でも何らかの対応をしなければならないことが起きてしまいます。システムの問題は時間が経てば解決するものではありません。トラブルに対応しすぐに解決しなければ、そのトラブルは再発するのです」
そのために仕事関係以外の人との時間が多くはつくれない。これも、システム構築にかける梅田の並々ならぬ熱意のあらわれであろう。
二十一世紀も「ムーアの法則」は生きる
梅田は、インテルの創業者の一人であるゴードン・ムーアが提唱した「半導体の集積密度はおよそ一年半で二倍になる」という「ムーアの法則」は二十一世紀も生き続けIT技術はすさまじい速さで発展し続けると見ている。
「水の利用が井戸から水道に変わったように、コンピュータの利用も、いずれ有り余ったその能力を公共財として様々な場面で利用する時代がきます」
それにともなってコンピュータの利用の方向が問題になる。「システムは道具という意味ではのこぎりや金づちと同じです。しかし、それで社会を変えられると考えるかどうかで大きく違ってきます。単にシステム自体をつくることだけではつまらない。そのシステムを開発する目的がはっきりしていれば、社会を変える可能性があります」と梅田は述べる。
コンピュータユーザーはどんどんと拡大している。システムのつくり手と異なり、ユーザーはシステムの技術的制約は考えず、自由な発想で目的達成のため、システムに対して要求することができる。このことが、よりよいシステムの構築の基本になると梅田は考えている。
(takashi umezawa)
注 所属、役職等は取材時のものである。